朝鮮戦争時の性事情―崔吉城氏が語る思い出2026/07/12

 朝鮮半島を南北に分断する三八度線のすぐ南側に位置する村(韓国領)は、1950年に朝鮮戦争が起きると最初は北朝鮮人民軍、次に国連軍(韓国軍を含む)、そして中国人民解放軍、さらに国連軍と入れ代わり立ち代わりで占領されました。 そういう村に子供時代を過ごした崔吉城氏(社会人類学研究者、広島大学名誉教授、故人)は、その時に村で起きた性事情について思い出を語っておられます。 ちょっと興味深いと感じましたので、引用紹介します。 出典は崔吉城『韓国民俗への招待』(風響社 1996年9月)です。

戦争と性暴行

私の故郷は三八度線(休戦ライン)付近の小さな村である。 戦後の韓国社会は急速に変わりつつあったが、村にはその影響はまだあまりなかった。 両班同族村ではないが韓国の普通の農村であり、儒教の通過儀礼や祖先崇拝を大切に守っていた。 したがって性に関しても儒教的な倫理が強く、女性の貞操や淑女としてのモラルを守ることには厳しかった。

1950年代の初め頃、村で小さな事件が起こった。 村の青年の中にソウルのある大学の学生(当時それは面単位として珍しいことであった)がおり、その青年が村の女性と恋愛したのである。 親は本人同士の恋愛関係を黙認しており、結婚に進むことを期待したようであった。 しかし村では男性たちが集まり、二人の恋愛を村の掟を守らぬ淫らな行為であると決議した。 そして女性の従兄が大門を締める木片を外し、女性の家に走り込んで頭を殴る、という事件になった。 本人はもちろん家族も怒ったが、その事件は女性の「淫乱」について親戚が怒ったということで静かに治まったのである。

朝鮮戦争が起きると、その青年は北朝鮮の運動員となり彼女はそれに協力した。 しかし青年は結局越北してしまい、彼女は村に残されてしまった。 そして韓国軍が入った時、彼女は共産主義者として軍人たちによって集団暴行されたのである。 その後、中国人民解放軍が侵攻して村に入った時、村人は極端に恐れたが、彼らは意外におとなしかった。 女性には振り向きもせず、性暴行は一切なかった。 老人には煙草や薬を与えたりしたので、村人は武力は弱くても良い軍隊だと思った。 やがて休戦になると女性の一家はソウルに引っ越していった。

 それまで伝統を重んじるごく普通の農村で、ちょっとした恋愛劇があっても何とか平穏にやり過ごしてきた平和な村でした。 それが1950年に起きた朝鮮戦争で激変します。

 戦争に参加した中国人民解放軍は、韓国では評判がいいですねえ。 私の聞いた話でも、中国軍は占領駐屯すると自分らの炊飯等のために薪を取りに山に入るのですがその時に村人のための薪も取ってきて分けてくれた、ということでした。 性犯罪についても、ほとんど全く話を聞きません。 村人は当然喜びました。 その直前に中国で起きていた国共内戦時に、中国人たちは国民党の国府軍よりも共産党の人民解放軍を圧倒的に支持した理由が分かりますね。

 1953年に休戦協定となって戦争は一段落することになるのですが、 この村ではその休戦前に国連軍が中国軍を追い払って駐屯したところ、性犯罪が激増しました。

休戦直前から村のまわりに米軍が駐屯するようになった。 村では韓国軍や国連軍が入ることを最初歓迎したが、村の象徴ともなっていた大きい松を切り倒したり、墓石を射撃の的にしたり、他の村では藁葺きの人家を燃やして体を休めたという噂も聞かれ、さらに国連軍という軍隊に性暴行者が多いのには驚かされた。

畑仕事をしていた若い女性が、米軍のジープで連れ去られ集団性暴行された事件があり、隣村では性暴行した黒人を殺してしまうという事件も起こった。 そうしたニュースはすぐ村々に広まり、若い女性は老人のように仮装したり子供をおんぶしたりして隠れたが、彼らは犬を連れてきて探したりした。 性暴行には若い女性だけでなく少年も対象になった。 私の友人などは、畑で仕事を手伝っている時に米兵が現れ、性器をなめさせられたり口に入れられたりした。

私の隣家にも若い娘がいた。 ある夕方それを知った二人のイギリス兵がその家を急襲し、一人は彼女を捕まえて部屋の中で暴行しようとし、一人は銃をもって見張りをしていた。 それを見かねた彼女の祖母が、危険を覚悟で鉄製の熊手鍬を持って板の間を叩いたのである。 驚いた彼らが逃げ出す光景を私は鮮明に覚えている。 まさに、儒教的性道徳が西洋に奪われる恐ろしい時期であった。

 当時の国連軍は、末端では軍紀が乱れていたようです。 ここは日本占領下のGHQや沖縄占領下の米軍などが連想されますね。

売春婦の登場

その最中に若い売春婦たちが大勢村に現れた。 村人は美女たちを歓迎した。 まるで彼女たちは村の救い主のようであった。 性暴行を免れるために村人は売春を歓迎した。 売春婦たちに部屋を貸して収入も得られるし、村は性的安全が守られる。 まさに一石二鳥であった。 そして村は一気に売春村になった。 村人は売春婦たちを軽蔑しなかった。

米兵たちはパパサン(父さん)、ママサン(母さん)、タクサン(沢山)、スコシ(少し)などの日本語混じりで話をした。 村人も英語を一所懸命に覚えようとした。 ハバハバ(早く)、ワシュワシュ(洗濯)、ストップ(中止)、オーケイ、イエス、ノ、シューシャインボーイ(靴磨き少年)、ツリコーター(自動車)、カモン(来い)、カッテムソナビチ(悪口)、ケーアウ(離れ)、スリップ(寝る、性行為)、ショットタイム、ロングタイム、オルナイトなどはよく通じた言葉であった。 そしてチャプチャプ(食物)・ストップ(中止)が、消化不良のために薬を求める意味となったように、ある程度ピジン語(現地語化した英語)的な表現も表れた。

米兵は飲んで歌い、ダンスもした。 歌は当時のアメリカの流行歌であった。 たまには「シナの夜」などの日本の歌も歌った。 朝鮮戦争に参戦した米兵たちは「帰休制度」などによって日本でつかの間の休憩をとり、「パンパン景気」をもたらしたのである。 米軍MPや警察当局は売春を一応取り締まったというが、私の村では一度もなかった。

村はすっかり売春村となって西洋文化と接するようになった。 売春婦と仲良くする人も多く、ある村の男は売春婦と寝たりして夫婦喧嘩になったりもした。 村の女性は売春婦の衣装から相当影響されたし、男性は米軍の軍服などを作業服にした。 一時的ではあるが村は経済的に豊かになり、私たちは缶詰の食品やコーヒーも味わった。 商品として価値あるものは洋タバコ(赤玉と言われた)であった。 ライターは神秘的にさえ思われた。 特にタバコを吸う老人はライターを貰って喜んだ。

その後、村の米軍部隊は4キロ離れた東豆川市に移動し、長期的に駐屯するようになった。 大部分の売春婦はそちらについていった。 そこには洋セクシーや洋カルボと呼ばれる女性(西洋人相手の売春婦)が兵士の2・3倍はいるといわれていた。

米軍部隊のあるところは、軍と売春婦が景気を握っているといい、もし米軍が外出禁止になるとすぐ不景気になるという。 こうした駐屯地の門前町として全国的に有名なのは、ソウルの梨泰院、京畿道の波州と烏山、大邱などである。 そこは町並みもアメリカの風景のようであり、治外法権地域として知られている。 売春婦たちは韓国軍の周辺にもおり、主に軍人たちが利用する駅の周辺を中心に「倫落街」が形成された。 つい最近までソウル駅や清涼里駅の周辺には売春婦が密集していたが、このような事情は都会であれば全国的な現象であった。

米兵による暴行や殺人事件、婚約を守らない米兵を恨んで自殺した事件などもたびたび報道された。 売春婦たちが死体をかついでデモをしたり、社会問題になったこともあったが、米軍は共産主義から守ってくれたのだし、平和を守ってくれる恩人ということで、大きく拡大されたことはない。 売春婦たち自身の反社会的で恥ずかしい存在であるという自己認識と、大きな武力には何もできないという無力感もあったのだろう。

米軍部隊が移動していった後、村は全く前の伝統的な農村に戻った。 二人の売春婦が村に残り、定着した。 一人は白人の子を産み、育てながら住み続け、もう一人はソウルの人だが結婚して村に住んでいる。 悲惨な過去を持っている人が、それをよく知っている村人と一緒に住んでいるのである。 最近村人が大勢集まって彼女の還暦祝いをしてあげたと聞いた。 これは両者ともに悲惨な過去を経験し、罪人なので誰をも差別することはできないということであろう。 言い換えると、戦争はある場合には寛容を生み、許す心にさせるのである。 村は差別のない社会になった。 こうして戦争は儒教社会の性的倫理もすっかり変えたのである。 

 儒教を厳しく守る伝統社会の農村が、駐屯した米軍の性事情により大きく変わったのでした。

売春の変容

売春婦たちは大体は民家を借り、家庭の雰囲気を出すような飾りつけをして米兵を得意客にした。 ホームシックの米兵にとっては家庭の雰囲気を味わい、慰められるのであろう。 まさに「慰安婦」の機能をよく果たしていたといえる。

O女は貸し部屋にベッドも置いてあったし、いくつかの英語も話せるので、同僚の彼女たちから姉チャンとかオヤブン(日本語)と呼ばれた。 O女はソウルに個人住宅を持っていて村から女中を連れていった。

多くの売春婦たちは、運が良かったらアメリカに行けるかも知れないという国際結婚の夢をもっている。 C女は売春婦になって白人の子供を生んで育てていたが、他の米兵と付き合うようになり結婚するつもりで生活費も送ってもらった。 しかし連絡が切れてしまい国際結婚は諦め、貯めた金で喫茶店を経営していたが、最近交通事故で死亡した。 このように、売春婦たちは得意客を作って国際結婚を狙うが、金を稼いで商売の元手を作るのが主な名目である。 私は大邱のキャンプ・ヘンリーやキャンプ・ワーカーの駐屯地の前で、国際結婚を扱っている店の看板を見たことがある。

売春婦が米兵と国際結婚した例は実際多いようである。 売春は結婚という「正道」から逸脱した行為であるが、逆に売春婦からはその道が結婚への道のように考えられているし、実際その機能も一部では果たしている。 倫理道徳を叫ぶ人からすると、実にアイロニカルな現象であるといえる。 (以上、崔吉城『韓国民俗への招待』風響社 1996年9月 114~119頁)

 朝鮮戦争後の米軍にまつわる売春事情でした。 村も大きく変わりました。

 以上で終わりですが、非常に冷静でまた客観的な記述をしようとしているところに感心します。

 

【関連拙稿】

在韓米軍の慰安婦の話(1)     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/10/25/7473061

在韓米軍の慰安婦の話(2)     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/10/30/7477690

在韓米軍の慰安婦の話(3)     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/11/03/7482041

在韓米軍の慰安婦の話(4)     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/11/07/7485014

北朝鮮に引け目を感じる韓国2026/07/06

 2000年代に入って、韓国人は北朝鮮に対する批判というか嫌悪感がかなり薄れるようになりました。 それまでの朴正煕・全斗煥大統領軍事独裁政権時に「反共」「滅共」を叫び、北朝鮮への警戒心があれほど激しかった韓国人がわずか十数年経って金大中・盧武鉉大統領の進歩政権の発足以降、北に融和的になるなんておよそ想像もつかなかったです。

 とすると、〝韓国人には北に対する親和的感情が元々あり、それがずっと隠れてきていたのではないか、そして進歩政権とともにそれが表面に現れたということではないのか”という仮説を立てることができます。

 そのあたりを説明しているものはないかと探していたら、小倉紀蔵さんの次のような文章を見つけました。

北朝鮮に引け目を感じる韓国人 北朝鮮に心理的に対抗する力がない韓国

韓国人も引き付ける「主体思想」  北朝鮮に魅力があるとすれば、主体(チュチェ)思想こそがその魅力の源泉、根源であると思う。 北朝鮮の「魅力」といえるのは、はっきりいえばそれしかない。 ‥‥ この思想は人間中心的な哲学の土台を磨いて、革命道徳で武装した人間こそがすべてを決定する主体(チュチェ)であるという姿勢を堅持する。 悪の帝国主義に抵抗すること自体が、もっとも高い道徳なのである。

北朝鮮の経済は破綻しているし、政治のやり方も他国のお手本にできない。 けれども主体思想というのは、特に韓国人にとっては、従北勢力や主体思想派でないひとでも、道徳志向的なひとにとっては魅力的に感じるのである。 左派の文在寅政権が誕生してからずっと、韓国人のメンタリティーが北に引っ張られたのは、根源的にいうとそこにある。 韓国の歴代保守政権の一番弱いところが自主性だったと認識された。 やはり日本問題なのである。 韓国の保守は日本に妥協した。 それに対して北朝鮮は妥協しなかった、ということである。 そこは韓国人のメンタリティーからいえば、北朝鮮の方に国家の正統性があるのではないかということにつながってしまいかねない。

もちろん韓国人であるから、国家の正統性は大韓民国にあるという思いは、はっきりと持っているが、こころの奥底の方では「日本にあれだけ突っ張った態度を取れる北朝鮮は偉い」という気持ちを持っている。 (以上、 小倉紀蔵『韓国の行動原理』PHP新書 2021年7月 121~122頁)

 小倉さんによれば、韓国人の考えは〝我が国は日本に対して強硬に対応せねばならなかったのに歴代の保守政権は日本に妥協してしまった、しかし北朝鮮は日本に妥協せず突っ張っていることは羨ましい、北朝鮮には頑張ってほしい”、ということになるようです。 この考え方は、進歩はもちろんですが保守もこれに傾くようになったということです。

 また北朝鮮・韓国を論じる古田博司さんは、韓国の歴史を顧みて次のように言っています。

近代史上、韓国は日本と戦ったことがない。 対日戦争を独立戦争として戦ったのは北朝鮮の故金日成主席と仲間たちだけだ。 青山里の戦闘(1920年)で勝ったというウソを定着させようと韓国は骨を折ってきたが、しょせんムリだった。 韓国が英雄として誇るのは、あとは爆弾魔のテロリストだけだ。 有能な人材は全て日本の近代化に参画したから、放浪者しか残らない。 その放浪者の爆弾テロリストを英雄にしたてなければならないのは、今の韓国の悲哀である。 (古田博司『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』WAC 2014年3月 111頁)

 韓国人は自国の歴史を読んでみても〝日帝強占期(植民地時代)に日本と戦ったのは金日成だけで、韓国の先人たちは正面切って戦っていなかった”と知るしかなく、〝それが「韓国の悲哀」だ”と古田さんは喝破しました。 今の韓国では植民地時代に青山里戦闘(韓国では「青山里大捷 청산리대첩」と呼ぶ)があったと教えられていますが、それは独立戦争というには程遠いものでした。 これに対して、金日成は満州で「抗日パルチザン」を闘っていました。 そしてこのことが、韓国が北に対して「引け目」を感じる要因だということです。 

 北朝鮮はこんな韓国の「引け目」を利用して韓国に反日をあおり、同時に日本には嫌韓をけしかけます。 これについては以前のブログで論じたことがありますので、お読みくだされば幸い。

北朝鮮の「갓끈 전술(帽子の紐 戦術)」 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/01/08/9022748

 韓国の反日に北朝鮮の影があるように、日本の嫌韓にも北朝鮮の影があるように見えてなりません。 〝嫌韓を叫ぶ在特会やネットウヨは北朝鮮の手のひらの上で踊っている”というのが私の分析です。 

 

【関連拙稿】

韓国と北朝鮮の歴史観が一致する!!       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/02/10/5675477

韓国の北朝鮮研究                http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/02/22/5698027

光州事件は民主化運動として普遍化できるのか?  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/05/25/8859204

北朝鮮の主体(チュチェ)思想とキリスト教(2)2026/06/30

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/06/23/9861457 の続きです。

元大統領で、長年日曜学校の教師も務めたジミー・カーター氏は、1994年に金日成氏と会談するために訪朝した際、北朝鮮が「ブランチ・ダビディアン」に似ていることに衝撃を受けた。 ブランチ・ダビディアンはテキサス州のキリスト教宗派で、前年に米連邦捜査官らと対立して同州ウェーコの拠点が包囲され、86人の死者が出ていた。 「ウェーコの宗教団体のような社会だ」。 カーター氏は同じ月にこのように書き残している。 「金日成主義」の信奉者は、その著作を学び、格言を暗記することや、全住居のメインルームに掛けられた肖像画のほこりを払うこと、同氏の誕生日や元日、卒業や結婚などほぼ全ての重要な日に、同氏の銅像に敬意を表して頭を下げることを求められた。

 ブランチ・ダビディアンはアメリカで生まれたキリスト教のカルト集団で、激しい武装闘争をくりひろげました。 詳しくは検索して調べてみてください。 カーター元大統領はこのカルト集団と北朝鮮が類似していると直感したわけです。

 当時の北朝鮮では、チュチェ思想を「金日成主義」としていたようです。 「自主、自立、自衛」を掲げる「チュチェ思想」よりも、個人崇拝であることをそのまま露骨に表わす「金日成主義」の方が的確なように思われます。

 そして記事では、金日成主義で洗脳された北朝鮮の人は国外に出て初めてその宗教性に気付くことが書かれています。

1989年にポーランド留学中に亡命したという北朝鮮人は、これを簡潔に表現した。 「北朝鮮にいた時、私は金日成を神だと思っていた」。 実際、もし金日成主義を宗教に分類するならば、それは世界最大級の宗教になり、ユダヤ教徒ほぼ同数の信者がいることになるだろう。

多くの北朝鮮人にとって、自身がその中で育てられてきたイデオロギーの宗教性を初めて認識したのは、国外に出た後だった。 「偉大な指導者」のための極秘任務で出国した際に気づいたというケースもある。

1968年にソウルで韓国大統領を暗殺する任務のさなかに拘束された北朝鮮の特殊部隊員は、初めてキリスト教に触れた時に感じた混乱を覚えている。 「彼らが神について語るたび、私は頭の中で金日成を思い出した」。 この人物は後にキリスト教の牧師になった。

1987年11月の大韓航空機爆破事件に関与し、その後逮捕された北朝鮮の金賢姫元工作員は、最終的にキリスト教に改宗した。 彼女はキリスト教と金日成主義との関連をさらに踏み込んで指摘した。 「最初に聖書を学び、それからチュチェを学べば、はるかに容易に理解できる」と彼女は語った。 「イエスの名前を金日成に置き換えてもよいと思う」。

 北朝鮮では、宗教は徹底的に弾圧されてきました。 北朝鮮の人々はキリスト教に接することができなかったのですが、代わりに金日成を崇める「チュチェ思想=金日成主義」が与えられました。 そして人々は国外に出て初めて、金日成はキリスト教の神と同じだったことに気付きます。 今回の記事にはありませんが、大韓航空爆破事件の金賢姫は拉致被害者家族の横田早紀江さんに会った際に次のような対話をしたそうです。

(クリスチャンの横田早紀江さんが)『あなたが信奉する共産主義を捨てて信仰をもつのは非常に大変と思いますが、どうして信じる決心ができたのですか』と質問した時、金賢姫さんはこう答えてくれました。 『それは簡単です。頭では金日成を捨て、イエス・キリストを受け入れたのです。首から下は同じです』と。その回答は明快でした  https://www.logos-ministries.org/blog/?p=3168

 金日成主義にある金日成をイエス・キリストに置き換えれば、敬虔なキリスト教徒になるということです。 洗脳を解く有力な方法なのかも知れません。

 ところで最後になりますが、北朝鮮についてカルト宗教と同じということで説明する人が多いですね。 たとえばオーム真理教なんかと比較して論じられたりしますが、それはイメージ的にそのように見えるという程度の分析です。 カルト宗教の教祖を金日成に置き換えれば金日成主義となるというのは、それはそれで正しいと思われます。 しかし今回の記事では〝どんな宗教と具体的にどのように繋がってカルトになったのか”というところまで書かれていて、ちょっと新鮮味を感じた次第です。   (終わり)

 

【追記】

 韓国の『中央日報』の6月3日付け記事には、次のように記されています。https://japanese.joins.com/JArticle/350003 

金日成の個人崇拝、『米国の長老派宣教師』が芽を出させた

「私はキリスト教徒なので金日成(キム・イルソン)バッジはつけません」 

2017年秋、当時ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)ソウル支局長だったジョナサン・チョン氏(44)は、北朝鮮の招待で訪れた平壌(ピョンヤン)で現地の牧師からこの言葉を聞き衝撃を受けた。 「金日成主義」と「キリスト教」が同じレベルの「宗教」であると確信した瞬間だった。

「‥『平壌に教会があると聞いたが日曜礼拝に参加できるか』と依頼し、鳳岫(ポンス)教会と七谷(チルゴル)教会を訪れた。驚くことに教会内には金日成・金正日の肖像が一つもなかった。牧師も信者もバッジを付けていなかった ‥‥ 礼拝後に理由を聞くと『私たちはキリスト教徒だから』と言った。 これは政権自身が『金日成主義』と『キリスト教』を同じレベルの宗教として認識している証拠だ」

 北朝鮮ではキリスト教や仏教などの宗教は徹底的に弾圧されて、ほとんど跡形もなくなりました。 しかし1970年代になって、国内に宗教が全くないというのは国際的に問題視されるようになってきたため、政府の指導の下にキリスト教会や仏教寺院が建てられたようです。 ただし、それらは外国からの賓客や旅行客のための見学用施設でしかありません。 カンボジアのシアヌーク元国王殿下が北朝鮮に亡命・滞在していた時、殿下が熱心な仏教徒だったので急きょお寺が作られたことは有名な話ですね。 

 平壌のキリスト教会は外国人の見学用ですから、宗教施設としての見栄えを重視したと思われます。 金日成バッジをつけないとか、金日成の肖像がないとかは、そのためでしょう。 あるいは金日成はキリスト教徒ではないことを示したかったのかも知れません。 何しろ北朝鮮では、キリスト教徒は出身成分では最下の敵対階層に属しますから。

 「金日成主義とキリスト教が同じレベルの宗教」は論者であるジョナサン・チョン氏の分析ですが、それは〝金日成を崇拝することと神に仕えることとは宗教的に同一レベル”という意味だと思われます。 

 

【北朝鮮に関する拙稿】

朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の建国日は本当か? https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/10/10/9723031

朝鮮民主主義人民共和国の正統性は何か?      https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/11/21/9636056

在日朝鮮人が話す北朝鮮              http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/12/19/9643754

北朝鮮には税金がない、その代わり‥‥       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/02/18/9660183

脱北して戻ってきた在日              http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/02/25/9662215

駐キューバ外交官の亡命ー北の人民は統一を望む   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/07/23/9703546

この世はすべて金―北朝鮮             https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/05/25/9687110

北朝鮮の「갓끈 전술(帽子の紐 戦術)」      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/01/08/9022748

北朝鮮が崩壊しないわけ             http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/08/04/1701479

北朝鮮の百トン貨車               http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/08/11/1716894

『写真と絵で見る北朝鮮現代史』         http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/02/06/5665262

韓国と北朝鮮の歴史観が一致する!!   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/02/10/5675477

白い米と肉のスープ           http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/02/14/5680393

韓国の北朝鮮研究            http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/02/22/5698027

第8題 現代に残る古代国家       http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihachidai

第45題 天皇制と首領制の比較      http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daiyonjuugodai

第57題 北朝鮮と小中華思想       http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daigojuunanadai

第105題 朝鮮総連の人から聞いた話    http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyakugodai

北朝鮮の主体(チュチェ)思想とキリスト教(1)2026/06/23

 毎日新聞の「ウォール・ストリート・ジャーナル日本版 5月号」(2026年5月16日 №56)に、北朝鮮の金日成思想はキリスト教に影響されているのではないかという興味深い記事が載りました。 筆者のジョナサン・チェンは、ウォール・ストリート・ジャーナルの中国支局長です。 ここでは一部を抜粋して引用紹介しますので、ご興味ある方は図書館に行って全文をお読みくださるようお願いします。

北朝鮮 揺るがぬ世襲体制の起源 ― 個人崇拝を通じて築かれた「金王朝」米キリスト教の痕跡

1991年秋、米国のキリスト教福音派の伝道師ビリー・グラハム氏に、平壌から予期せぬ招待が届いた。 「われわれの教会にあなたをお迎えするのは大きな喜びとなるだろう」。 北朝鮮の国家公認のプロテスタント教会とカトリック教会の指導者が送ってきた手紙にこう書かれていた。

平壌はグラハム一家にとって馴染み深い場所だった。 1930年代、妻のルース・ベル・グラハムさんは平壌西部の広大な長老派教会の伝道施設にある高校に通っていた。‥‥当時、ほかにも教会はあったが、平壌の「中央長老派教会」に勝る規模のものはなかった。 この教会には毎週、あふれんばかりの会衆が集まり、宣教師は「壁が外に膨れ始めるのではないか」と恐れるほどであった。‥‥平壌市内はキリスト教信者の大きな存在感を見せ、「東洋のエルサレム」の呼び名もついた。

(1992年に)グラハム氏は平壌に到着後間もなく、1912年4月15日に金日成氏が生まれたとされる平壌郊外の質素な茅葺の小屋に足を運んだ。 グラハム氏とその一行は、かつてこの地を支配していたキリスト教信仰とのあまりの類似性‥‥「飼い葉桶と3人の賢者さえいれば完璧だ」。 グラハム氏は皮肉っぽくこう言った。

 歴史をひもとけば、朝鮮でのキリスト教は19世紀後半以降に本格的に布教が始まり、学校教育や医療活動を行なうなどで広まって行きました。 植民地時代は、平壌がその中心地と言えるほどだったと言います。 招待されたグラハム氏は妻がその時に平壌にあったキリスト教の学校に通っていたのですから、その点が招待の理由だったのかも知れません。 グラハム氏は、その平壌にある金日成の生家でキリスト教の痕跡を見つけたのでした。

グラハム氏が訪朝した頃(1992年)、世界では社会主義国家の崩壊がいくつか目撃されており、平壌に残る時代遅れの状況が、歴史のゴミ箱に捨てられるのは時間の問題だと、多くの関係者は思っていた。 だが同時代の指導者と異なり、金日成氏は先の世代まで引き継げる強固な個人崇拝を築き上げていた。

 金日成は息子の金正日に党・国家を任せていて、順調に進んでいるという報告を受けて満足し、悠々自適の生活を送っていたそうです。 それが1990年ごろに息子の悪行(喜び組などの乱痴気騒ぎなど)を知り、そして国内が無茶滅茶な状態になり、国際的にも孤立していることを知りました。 そこで息子には軍事のみに専念させることにして、自分は国政のうち政治・外交を直接指揮することにしました。 それまで自国を援助してくれていた東欧やソ連などの社会主義国が崩壊し、南朝鮮(韓国)がロシアや中国と国交を結んだ時期でしたから、危機感は相当なものだったようです。 そして世界を見渡して味方になってくれそうな人士を北朝鮮に招請したと思われます。 ここで取り上げられているグラハム氏がその一人でしょう。 それ以外にこの時期には統一教会の文鮮明やジミー・カーター元米大統領も平壌で金日成と会見しています。

北朝鮮は建国時こそ、マルクス・レーニン主義をたたえていたかもしれないが、後に平壌中心部の金日成広場からマルクスとレーニンの肖像画を撤去した。 金日成氏はその代わりにマルクス・レーニン主義を「主体(チュチェ)思想」で補完し、最終的には完全に置き換えた。 「偉大な指導者」と呼ばれる金日成氏が、14歳で革命家となり、考え始めたとされる哲学だ。 チュチェは通常は「自主・自立・自衛」のイデオロギーと説明されるが、ある学者が「チュチェの福音」と呼んでいるほど、疑似宗教的な意味合いに満ちたものだった。

‥‥ かつてないほど壮大な賛辞が寄せられるようになった。 「彼は考え得る限りのあらゆる名誉ある称号で呼ばれていたようだ。 国を代表する小説家、哲学者、教育者、デザイナー、農業実験者、建築家、産業管理の専門家、将軍、卓球指導者というように」。 ある伝記作家はこう述べた。

1994年に金日成氏が死去した後、息子の金正日氏は後継者となり、父親を北朝鮮の「永遠なる主席(首領)」と定めることで、建国者と事実上一体化したこの国を永遠に統治し続ける存在にした。 

こうして共産主義とは程遠く、むしろ宗教に近い体制に発展したことは、金日成氏を以前支持していた社会主義者たちを愕然とさせた。 特にかつて朝鮮半島北部を掌握していた宗教に似ていることは驚きであった。

 北朝鮮は当初こそマルクス・レーニン主義を唱えていましたが、チュチェ思想という疑似宗教的な考えに染まっていき、ついにはマルクスもレーニンもかなぐり捨てることになります。 1970年代の私の経験ですが、朝鮮総連の活動家が〝チュチェ思想はマルクス・レーニン主義を超えた唯一で最高の思想だ”と言ったので、それに対して〝歴史上これまでたくさんの思想があり、それらを全て読んで比較した上でチュチェ思想が最高だと言うのならいいのだが、そもそも金日成はマルクスやレーニンを朝鮮語で読んだのか? それとも日本語で読んだのか? その翻訳者は誰なのか?”などと疑問を呈して議論したことを思い出しましたね。

信仰の力 目の当たりに

金日成氏は後に、キリスト教が自身の思考に与えた影響を曖昧にし、歪曲するようになったが、今にして思えば、彼の人生には紛れもなくキリスト教の痕跡があった。

 金日成は熱心なクリスチャン家庭で生まれ育ち、また当時その地域ではキリスト教が盛んだったこともあって、彼の思想にはキリスト教の影響があるのではないかというのがこの記事の主張です。 金日成は子どもの時にキリスト教会でオルガンを弾いていたといいますから、その可能性は大いにあります。 つまり金日成の考え方は、子ども時代に家族や教会から教え込まれたキリスト教に影響されているということです。

米国において長老派教会が説いたのは、慈悲深い神の恵みによる罪からの救済である。 だが同時に、神の前で万人は平等であるというメッセージも教えた。 19世紀後半にこれが朝鮮半島に導入された当時は急進的な考え方だった。

こうした教義は、同国北西部の人々、特に平壌とその周辺では異例の熱意をもって受け入れられた。 未来の北朝鮮指導者は、キリスト教バブルが起きたこの地で育ち、成人を迎えた。 金日成氏は信仰の力を目の当たりにしながら育った。 つまり人々を動員し、畏敬の念や献身、恐れ、あるいは熱狂を呼び起こす力を、だ。 金銭や権力、名声よりも.信仰だけが人の永遠の運命に語りかけることができたのだ。

第二次世界大戦終結後、金日成氏は権力の座に上り詰める中で、意識的か無意識的かは別として、彼の家族が長老派宣教師から受け取ったイデオロギーの遺産を頼りに、国づくりを始めた。 自身の信奉者に対し、信仰のみならず崇拝も要求し、自身が共に育ったキリスト教の教えや実践を彷彿とさせる信念体系を作り上げた。

 金日成の家やその地域で興隆したキリスト教は、長老派だったようです。 記事はこの宗派の思想から、金日成は「自身の信奉者に対し、信仰のみならず崇拝も要求し、自身が共に育ったキリスト教の教えや実践を彷彿とさせる信念体系を作り上げた」と主張しています。 私はキリスト教に関してそれほど詳しくないのではっきりとは言えませんが、キリスト教でも極端な考え方をするカルト的な宗派が存在します。 幼い時にキリスト教から出発した金日成は、いつの間にかこのようなカルト宗教的な方向に行ったと言えるのかも知れません。 「自身が共に育ったキリスト教の教えや実践を彷彿とさせる信念体系を作り上げた」とある部分は金日成の分析として妥当だと思ったのですが、どうでしょうか。 これが凄まじいまでの個人崇拝のチュチェ思想につながったというわけです。    (続く)

 

【追記】

2026年6月3日付けの韓国『中央日報』に、このジョナサン・チョン氏のインタビューがありました。 合わせてお読みください。 なおこの筆者は毎日新聞では「チェン」、ローマ字で「Cheng」となっています。 おそらく「鄭」の中国語読みと思われます。

日本語記事 https://japanese.joins.com/JArticle/350003 https://japanese.joins.com/JArticle/350004 

原文韓国語記事 https://www.joongang.co.kr/article/25433286 https://www.joongang.co.kr/article/25433397

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (14)2026/06/17

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/06/10/9859201 の続きです。

 ↑は、朝鮮銀行史研究会編『朝鮮銀行史』(東洋経済新報社 昭和62年12月)987頁に掲載されている本店営業部1944年1月現在の職員名簿の一部です。 クリックすれば拡大します。 名簿に*印が付いた職員が朝鮮人で、23人います。 当時、日本人(内地人)職員は加俸という名目で4~6割の割増手当が支給されていたのですが、朝鮮人職員にはその手当がありませんでした。 また日本人男子職員は徴兵義務があり、朝鮮人職員には徴兵義務がありませんでした。 そういった事情のためと思われますが、職員名簿には朝鮮人を区別する*印が付けられていました。 この朝鮮人職員23人のうち次の6人が朝鮮名(↑では赤の下線をつけています)で、他は日本風の名前です。 

 出納整理主任  閔 泳台

 支払主任    李 璣鐘

 出納整理    陸 鎮鳳

 証券      具 栄洲

 取立      金 泰晋

 計算兼監査   洪 国善

 この名簿の時期である1944年は創氏改名から4年も経っていて、太平洋戦争中であり軍国主義真っ盛りの時代でした。 そして朝鮮銀行は植民地朝鮮において通貨を発行するなど中央銀行の役割をしていました。 つまり経済的「収奪」の大元締めでしたから、日本帝国主義「侵略」の心臓部とも言える存在です。 そこの本店営業部に、日本名に変えずに朝鮮名のままの朝鮮人職員が6名も在籍していたのです。

 創氏改名は「日本が朝鮮植民地支配の際に皇民化政策の一環として、朝鮮人から固有の姓を奪い日本式の名前に強制的に変えさせた、これを拒否しようとしたものは非国民とされ、様々な嫌がらせを受け、結局は日本名に変えた」というような説明がされていますが、そうならばここに記した6人の朝鮮銀行職員は「非国民」だったのでしょうか? あるいは朝鮮銀行は「非国民」を雇用したのでしょうか? そうではありません。 1940年の創氏改名令は日本名を強制するものではなく、先祖から受け継ぐ朝鮮名をそのまま維持してもいいとする法律だったのです。 つまり日本名でも朝鮮名でも構わないとするものでした。 だから朝鮮名の朝鮮人職員が勤務していたのです。 そして彼らは不利益を蒙ることなく社会に暮らすことができたのです。

 1980年代の日本の学校の副読本の朝鮮史には、「官憲は創氏改名拒否者に対し、入学、就職、日本への渡航を邪魔し、行政事務や荷物輸送を受け付けず、労務徴用の対象にしたり、不逞鮮人と呼んでブラックリストに載せるなどした」(神奈川県高等学校教職員組合『わたしたちと朝鮮 高校生のための日朝関係史入門』公人社 99頁)などと解説されていましたが、明らかな誤りですね。 正解は〝創氏は拒否できるものではなく全員が創氏した、それには日本名にする「設定創氏」と朝鮮名のままでいいとする「法定創氏」の二種類があった”です。

行政手続きは基本的に戸籍名で行なわなければなりませんが、その一つが日本(当時は内地)に行く時に必要な渡航証明書でした。 渡航証明には戸籍抄本が必要で、そこには創氏した名前が記されていましたから設定創氏した朝鮮人なら日本名を使うことになり、法定創氏した朝鮮人なら朝鮮名のまま使っていたのでした。 ですから「官憲は創氏改名拒否者に対し‥‥日本への渡航を邪魔し」は、明白なウソです。 こんなウソが日本の学校では教えられていたのです。

 このようなウソの歴史はさらに〝在日朝鮮人は創氏改名で日本名を無理やり付けさせられて、今でも通名(日本名)を使わされている”となり、そして〝屈辱の創氏改名の歴史を学び、通名を捨てよう!”と唱えるいわゆる「本名(朝鮮名)を呼び名乗る運動」が展開されたのでした。 

第21題「本名を呼び名乗る運動」考   http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainijuuichidai

第85題 (続)「本名を呼び名乗る運動」考  http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihachijuugodai

第84題 「通名と本名」考        http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihachijuuyondai

通名禁止、40年前から「左」が主張と実践 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/01/05/6681269

「左」が担った「通名禁止」運動(3)    https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/03/23/9359710

金義晴さんの思い出―本名について       https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/04/17/9676429

通名を本名と自称する在日           https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/07/04/6500499

「部落民宣言」と「本名を呼び名乗る」運動  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/10/28/9435562

民族運動として「本名を呼び名乗る」は正当なものですが、その根拠として創氏改名のウソの歴史を持ち出すのはいかがなものかと思ったものでした。

 ところで冒頭の職員録↑の中に出てくる「洪国善」は、旧日本軍の将校で敗戦時に戦犯として処刑された「洪思翊」の子息です。 洪思翊は創氏改名でも日本名にすることなく朝鮮名を維持したので、家族も同じく「洪」氏となります。 しかし彼は今の韓国では「親日反民族行為者」と認定され、売国奴扱いされていますね。 日本名に変えず朝鮮名を維持したことは、何ら評価されないのでした。 https://www.asahi.com/articles/ASS5H0R05S5HUHBI019M.html 

 

【創氏改名に関する拙稿(追加分)】

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (12)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/06/03/9857996

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (13)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/06/10/9859201

朝鮮人志願兵初の戦死者                https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/11/02/8719450

日本統治下朝鮮における朝鮮語放送           https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/11/06/8721782

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (13)2026/06/10

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/06/03/9857996 の続きです。

 ↑は、1942年の『毎日新報』に載った「歯科医師試験合格者」記事です。 創氏改名が施行されてから2年経った時期です。 25名の合格者には朝鮮人も入っていますが、そのうち「李徳模」「金福徳」の二人が朝鮮名です。 この資料を掲載した韓国の「창씨개명 나무위키(創氏改名 ナムウィキ)」では次のように解説しています。 https://namu.wiki/w/%EC%B0%BD%EC%94%A8%EA%B0%9C%EB%AA%85

의료진이 일본식 성명을 사용하지 않을 경우 폐원 조치가 이루어졌다는 공식적인 기록은 확인되지 않는다. 실제로 1942년 치과의사시험 합격자의 명단인데, 조선인에게도 공공 서비스 중에서도 매우 고급 기술인 치의학을 전공하고 치과의사가 될 수 있는 길이 1941년까지도 열려있었음을 알 수 있다. 만약 조선인을 매우 못마땅하게 생각하여 어떤 식으로든 불이익을 주고자 하는 것이라면, 치과의사 자격 취득 시험을 응시하게 하고 자격을 취득하게 하여 잠재적으로 일본인의 치아 건강을 맡기는 것은 그 목적과 완전히 모순된다. 심지어 그 논리대로라면 조선식 이름을 유지한 조선인은 더더욱 제재했어야 한다. 하지만 위의 1942년 치과의사시험 합격자의 명단에서 볼 수 있듯이, 의료인이 되고자 하더라도 창씨개명이 필수는 아니었다는 점에서 이는 사실이 아니라고 보는 것이 개연적이다.

 取り急ぎ、直訳してみました。 

医療人が日本式の姓名を使用しない場合、廃院措置がなされたというような公式記録は確認されていない。 実際にこれは1942年の歯科医師試験合格者の名簿であるが、公共サービスにおいても非常に高級な技術である歯医学を朝鮮人が専攻して歯科医師になることができる道は、1941年までにも既に開かれていたことが分かる。 もし朝鮮人はダメだとしてどうあっても利益を与えないというのであれば、朝鮮人に歯科医師の資格を与えて日本人の歯科健康の仕事に従事させていることと完全に矛盾する。 さらにその論理であれば、朝鮮式の名前を維持する朝鮮人にはさらなる制裁を加えていなければならなかった。 しかし上記の1942年の歯科医師合格者名簿を見るように、医療人になろうとする朝鮮人に創氏改名が必須でなかったという点から、それは事実でないと見るのが合理的である。

 この解説にある通り、歯科医師は創氏改名で朝鮮名を維持した朝鮮人にも開かれていました。 そしてそんな朝鮮人歯科医師は日本人患者も診ることになるのですが、当時の人々はそれに違和感を持たなかったのです。

 『新版 韓国・朝鮮を知る事典』(平凡社 2014年3月)の291頁には、「創氏改名」について次のように解説しています。

日本の植民地支配下で、朝鮮人から固有の姓を奪い、日本式氏を名乗るよう強いた政策。‥‥ 日本の氏を名乗らされたという屈辱の思いは終生消えることはないだろう

 このような解説には、大いなる疑問をいだきます。 創氏改名には「設定創氏」と「法定創氏」の二種類があります。 前者は日本名となり、後者は朝鮮名がそのまま残るものでした。 当時の朝鮮人はどちらの創氏を選んでもよかったのでした。 「朝鮮人から固有の姓を奪い、日本式氏を名乗るよう強いた政策‥日本の氏を名乗らされたという屈辱の思い」というのは、誤りと言わざるを得ません。 当時の朝鮮では、朝鮮名の歯科医が堂々と存在していたのです。

 

【創氏改名に関する拙稿】

創氏改名とは何か (00年4月1日)  http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daijuunidai

創氏改名の残滓 (01年6月1日)  http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daisanjuudai

創氏改名の手続き(04年10月1日)  http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainanajuudai

毎日新聞の創氏改名記事の間違い   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/02/03/9834434

創氏改名の誤解―「世界史の窓」   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/03/26/8421515

朝鮮名での設定創氏が可能な場合  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/02/12/1178596

宮田節子の創氏改名論       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/11/10/7487557

石破茂さんのデタラメ創氏改名論   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/10/06/9161642

朝日の創氏改名論         http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2008/03/15/2753298

辺見庸さんの創氏改名論      https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/10/06/1838919

民族名で応召した朝鮮人      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/11/14/7491817

金時鐘さんの創氏改名は「金谷光原」―神戸新聞 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/06/03/9779836

尹東柱の創氏改名―ウィキペディアの間違い   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/08/11/8939110

尹東柱の創氏改名記事への疑問       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/07/16/8917954

「尹東柱」記事の間違い―中央日報     https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/02/17/9464967

朝鮮人は来日すると日本名を名乗った(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/11/26/9819692

朝鮮人は来日すると日本名を名乗った(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/12/03/9821132

朝鮮人は来日すると日本名を名乗った(3) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/12/10/9822738

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (12)2026/06/03

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/02/11/9346012 の続きです。

 ↑は創氏改名令が施行された翌年の昭和16年(1941)に、当時唯一のハングル新聞である『毎日新報』に掲載されたアナウンサー合格者の記事です。 記事の内容は、

아나운서-合格者 十대一이란 격렬한 경쟁속에서 광영의합격을한 경성중앙방송국 제二방송부 새 「아나운서-」는 다음 여섯명이다  ▲男子 豊原信勝 大村幸正 孫本正鳳 李元九  ▲女子 山本鮮玉 許占玉

 ハングル部分を訳しますと、次の通り。

アナウンサー合格者 10対1という激烈な競争の中で、光栄の合格をした京城中央放送局 第二放送部の新しい「アナウンサー」は次の6名である。

 ハングル新聞に載った記事ですので、読者は当時の朝鮮人にほぼ限られます。 ですから合格したアナウンサー6名は朝鮮人と考えられます。 この6名のうち「李元九」「許占玉」の二人が朝鮮名で、法定創氏したと思われます。 また残り4名の「豊原信勝」「大村幸正」「孫本正鳳」「山本鮮玉」は設定創氏した朝鮮人でしょう。

 この資料を紹介した韓国の「창씨개명 나무위키」では、次のように解説しています。 https://namu.wiki/w/%EC%B0%BD%EC%94%A8%EA%B0%9C%EB%AA%85

1941년 경성중앙방송국에 아나운서로 채용된 합격자 6명중 2명 이원구, 허점옥이 창씨개명을 하지 않은 조선식 이름을 가진 채 아나운서에 합격했다. 경성중앙방송국은 현대의 KBS에 해당하는 방송국이다. 아나운서의 직업 특성상 자신의 이름을 스스로 시청자에게 알리게 되는 경우가 빈번하였을텐데, 이러한 직책을 창씨개명을 하지 않은 조선인을 임명하였다는 것은 창씨개명을 하지 않은 사람이 직장을 얻을 수 없다는 주장의 논리에 어느 한 부분도 맞지 않는다. 그렇다면 조선식 이름을 유지한 자를 고용한 이 경성중앙방송국은 폐쇄되었는가? 그렇지 않다. 경성중앙방송국은 해방 이후까지 건재하다가 이후 한국방송공사로 명맥을 이어간다. 심지어 한국방송공사는 아예 대놓고 창립일을 경성중앙방송국의 창립년도인 1927년을 그대로 계승하고 있다. 즉 KBS의 존재자체가 해당 주장이 사실무근이라는 하나의 증거인 것이다.

直訳しますと

1941年の京城中央放送局にアナウンサーとして採用された合格者6人中2人の李元九、許占玉が創氏改名をしていない朝鮮式の名前を持ったままアナウンサーに合格した。 京城中央放送局は現代のKBSに該当する放送局だ。 アナウンサーの特性上、自分の名前を自ら視聴者に知らせる場合が多かったはずなのだが、このような職責に創氏改名しない朝鮮人を任命したというのは、創氏改名をしない者は職を得ることができなかったという主張に一つも整合しない。 それでは朝鮮式名前を維持した者を雇用した京城中央放送局は閉鎖されたのか? そんなことはなかった。 京城中央放送局は解放以降も健在で、その後韓国放送公社として命脈を保ったのである。 さらに韓国放送公社は最初から堂々と自分の創立年を、京城中央放送局の創立年度である1927年にしているのである。 すなわちKBSの存在自体が、あの主張(創氏改名をしない朝鮮人は弾圧された)が事実無根であるという証拠となる。

 なおアナウンサーに朝鮮人がなぜ採用されたのかについてですが、当時の朝鮮でのラジオ放送には朝鮮語放送があったからです。 朝鮮におけるラジオ放送は昭和2年(1927)より始まっており、当初は日本語を主とする放送でした。 またラジオ機器は高価で聴取料も高かったせいもありますが、朝鮮人にはなかなか普及しませんでした。 そこで朝鮮人にも普及すべく昭和8年(1933)より朝鮮語で行なう第二放送が始まり、聴取料も値下げされました。 これでようやく普及したそうです。 普及したといっても個人でラジオを持っている家は裕福な家に限られ、主に官公庁や市場など人が集まる場所に置かれたようです。

 朝鮮語の第二放送が開始された1933年は朝鮮語学会が「朝鮮語綴字法統一案」を定めた年でもあることから推察して、音声と文字(ハングル)の両方の標準語化が同時に図られたものと考えられます。 ラジオ放送で使われる朝鮮語は音声の標準語として朝鮮全体に定着したといいます。 そして第二放送は一部に日本語番組を挟み込みながら、基本的に朝鮮語で終戦まで続いたのでした。 ラジオから朝鮮語放送がずっと流れていたのですから、〝朝鮮語は禁止された”という歴史は虚偽ですね。

 もう一方の日本語の第一放送でも、一部の時間ですが朝鮮語の番組がありました。 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/11/06/8721782 これは昭和18年(1943)2月10日付けのラジオ番組表ですが、そこには朝鮮語番組の担当アナウンサーとして「洪善杓」「呉島進」「青山鶴夫」の三名の名前が出ています。 このうち「洪善杓」は明らかに朝鮮名です。

 植民地朝鮮で施行された創氏改名は、日本名に変えないで先祖伝来の朝鮮名をそのまま使い続けることもできるものでした。 そしてその朝鮮名を堂々と公表しても、就職に不利になることはなかったのです。 創氏改名は「日本が朝鮮植民地支配の際に皇民化政策の一環として、朝鮮人から固有の姓を奪い日本式の名前に強制的に変えさせた。これを拒否した者は非国民とされ、様々な嫌がらせを受け、結局は日本名に変えた‥そんな嫌がらせに抗して朝鮮名を守った人は民族的英雄だ」とするようなウソの歴史記述は改めなければならないでしょう。

 ところで冒頭の記事↑でアナウンサーに合格したという李元九は、나무위키によれば祖父が「乙巳五賊」の一人である李根沢だそうです。 「乙巳五賊」とは1905年の第二次日韓協約に賛成した閣僚のことで、今の韓国では「親日反民族行為者」に認定され、〝親日派=売国奴=民族の裏切り者”として歴史上悪名高いです。 その子孫が創氏改名でも日本名にすることなく朝鮮名を維持したのですが、そのことは今の韓国では何ら評価されるものではなかったのでした。

 

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/03/28/8423913

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (2)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/03/30/8425667

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/01/8436928

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (4)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/03/8441238

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (5)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/05/8444253

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (6)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/07/8447420

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (7)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/09/8451992

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (8)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/11/8457633

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (9)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/14/8478676

朝鮮人戦死者の表彰記事―1944年         http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/10/29/8716160

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (11)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/02/11/9346012

4・3事件―島民はなぜ黙ってきたのかを想像する2026/05/27

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/04/03/9845845 の続きです。

 4・3事件がどういうものだったのか、金時鐘さんは『朝鮮と日本を生きる』(岩波新書 2015年2月)に詳しく書いておられます。 ただし彼は南労党の党員でしたから、内容は武装蜂起を肯定する立場です。 また彼は講演でもこの立場で語っておられます。 彼だけではありませんが、マスコミや集会などで語られている事件は、〝島民らが祖国の分断に反対するためにやむにやまれず立ち上がった”というようなイメージがほとんどです。 それは〝善”は蜂起した「島民=南労党」であり、〝悪”はこれを過酷に弾圧した「軍・警・右翼」と単純に二分化するものです。 しかしそれでは事件の真相が見えてこないと考えます。 分かりやすく説明するために、ちょっと単純化してお話します。

 朝鮮民族はよく知られている通り、祖父母・父母・伯父・伯母等々の一族親戚が十人以上の単位、もう少し遠い親戚を含めると「八寸=八親等」ですから百人以上となるだろう、そんな血縁共同体を形成しているのが一般的でした。 4・3事件の時、この大家族=一族親戚のなかで何人かが南労党に入り、何人かが警官になったり選挙管理人なったりして権力側についたのでした。

 権力側(軍・警)は反権力側(南労党)を討伐するために、家々に入り込んで「南労党はいるか?!」と捜索し、見つければ即座に殺すか、引っ張り出して公開処刑していきます。 対して南労党遊撃隊は警官や右翼の家、地元有力者を襲撃し、時には家族までも殺していきます。 このような権力側と反権力側との殺し合いが、全島で行なわれたのでした。

 金時鐘さんの一族親戚も、このような殺し合いに巻き込まれます。 彼は『朝鮮と日本を生きる』で、親戚の南労党員が軍・警によって殺害された事件について、次のように記しています。

狂乱の虐殺はついに、私の身近な従姉の夫にまで及んできました。 惨殺された屍体をまじまじと見たのは、この時が初めてです。 ‥‥日本から引き揚げてきてまだ3年も経たない、高南杓という実直な40がらみの男でした。 (220頁)

 次に金さんが警察から逃げ回って叔父の家で匿われていた時、その叔父が南労党によって殺害されました。

かくまってくれた叔父貴(母方の)があろうことか、武装隊(遊撃隊)の手によって殺されてしまうのです。‥‥ 区長の家ですので‥警察の上役あたりがしょっちゅう出入りします。 そのつどちょっとした酒食をもてなしてもいたようです。  それが武装隊には討伐隊(軍・警)に肩入れしているように見えたのでしょう。‥‥ 明け方に襲ってきた武装隊に腹部を二ヶ所も竹槍で刺された叔父貴は、腸をはみださせたまま裏の石垣をよじのぼって裏の小道に落ちました。 それでもすぐには死ななくて、七転八倒の苦しみが3日も続きました。 (228~229頁)

 南労党は、敵と見た金時鐘さんの叔父を無惨に殺害したのでした。

 金さんの一族親戚のうち二人が犠牲になりました。 ここで、ふと疑問が思い浮かびます。 親戚のうち大部分は権力(警察などの行政関係)も反権力(南労党)も関係ない人たちでしょう。 特に女性は大半が学校にも行ったことがありませんから、「選挙」やら「民主」などのイデオロギー的知識もほとんど分からなかったはずです。 ところが自分の身内の中に互いに対立を演じる権力側(警察など行政関係者)と反権力側(南労党員)とがいて、実際に殺害されたのでした。 彼らはその身内の惨殺をただ見るしか出来なかったのですが、その時の気持ちはどうだったのでしょうか?  金さんの著作にはそこまで触れていないようです。 それが私に疑問を抱かせるところです。

 この疑問を抱いた時、世に広まっている「4・3事件」の説明には、南労党や警察等とは直接関係ない一般島民から見た事件というものが語られていないことに気付きました。 それは殺し合いをするほどに対立している南労党と警察等の両方が自分の身内にいるという中で、ただひたすら右往左往するしかなかった一般島民のことです。

 想像してみてください。 葬式や法事、結婚式などで親戚一同集まるなかで名前も顔も知っている○○ちゃんは南労党、□□ちゃんは警官となって殺し合う関係になっている場面を‥‥。 そこにいる人たちは、いざ殺害が始まれば仲裁することもできず、どちらかの味方にもなることもできず、ただ黙って見ているだけの場面を‥‥。

 こんな想像をしてようやく済州島民たちの多くが事件を話さず黙っている理由が分かってきました。 顔も名前も知っていて、しかも何か事があれば互いに助け合ってきた一族郎党のなかに敵対し合う南労党員と警官がいる、そして実際に殺されるところを見る‥‥、これが4・3事件の現実であったが故に島民たちは黙るしかなかったと想像されるのです。 

 想像が過ぎたのも知れません。 ただ4・3事件は余りにも悲惨で、済州島出身の在日僑胞ハラボジ・ハルモニが何も喋らないし喋ろうともしてこなかったことに、そんな想像をしてしまうのでした。

  

【南労党の4・3赤色テロ】

済州島4・3事件の赤色テロ(1)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/06/10/8890890

済州島4・3事件の赤色テロ(2)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/06/18/8896622

済州島4・3事件の赤色テロ(3)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/06/23/8900976

済州島4・3事件の赤色テロ(4)-警官家族へのテロ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/06/30/8906338

済州島4・3事件の赤色テロ(5)―右翼家族へのテロ  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/07/05/8909472

済州島4・3事件の赤色テロ(6)―評価は公平に    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/07/10/8912907

 

【4・3事件を語る金時鐘氏への疑問】

金時鐘氏への疑問(5)―政党加入・4・3事件   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/18/9769221

金時鐘氏への疑問(6)―4・3事件(その2)   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/23/9770375

金時鐘氏への疑問(7)―4・3事件(その3)   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/28/9771478

金時鐘氏への疑問(8)―西北青年団       https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/02/9772477

金時鐘氏への疑問(9)―韓国否定と北朝鮮容認  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/09/9774295

 

【南労党を隠蔽するマスコミ】

4・3事件-南労党を隠ぺいする読売解説   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/11/19/9000560

4・3事件 南労党を隠ぺいする毎日新聞   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/02/29/9218957

南労党を隠ぺいする韓国マスコミ      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/04/04/9055271

4・3事件―ハンギョレ新聞も南労党を隠ぺい https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/11/03/9537878

韓国映画『チスル』            http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/06/01/7332806

長生炭鉱水没事故死者のDNA鑑定は日韓合同で2026/05/21

 一昨日~昨日に韓国の安東で開かれた日韓首脳会談で、話題になっている長生炭鉱水没事故(1942年発生)死者のDNA鑑定について、日韓が共同してやることに決まったそうです。 https://japan.hani.co.kr/arti/politics/56213.html この問題については、拙ブログでも以前に取り上げました。

長生炭鉱刻む会代表のインタビュー―『週刊朝鮮』(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/03/16/9842328

長生炭鉱刻む会代表のインタビュー―『週刊朝鮮』(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/03/21/9843303

長生炭鉱刻む会代表のインタビュー―『週刊朝鮮』(3) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/03/27/9844436

長生炭鉱、韓国側支援者インタビュー『週刊朝鮮』    https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/04/10/9847433

 今回決まったのは、このDNA鑑定に韓国政府も参加し、日韓共同作業とすることまでですね。 これは当然でしょう。 日本だけでやれば、韓国民の国民感情からして〝また何か隠しているのではないか”などのあらぬ疑いをかけてくるでしょうから。

 問題はその後です。 発掘された全ての遺骨(五点と言われている)の身元がすべて判明して遺族に引き渡されればひとまず解決ですが、果たしてどうなるでしょうか。 80年以上も前の事故で、ずっと海中に残された遺骨です。 また犠牲者183人のうち、遺族のDNAは80人分だけが確保されているそうです。 全ての遺骨にその遺族が判明することは簡単ではないと言えそうです。

 またもし鑑定しても身元不明となった遺骨をどう処理するのか、早めに検討しておかないと大きな問題に発展する可能性があると思われます。 拙ブログでは、次のように論じました。 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/03/27/9844436

それから気になるのは、これまで発掘してきた遺骨、そして将来も発掘発見されるであろう遺骨を最終的にどうするのかという点です。 どこかの専門機関にDNA鑑定を依頼して身元を調査し、それが判明した遺骨は遺族に引き取ってもらって終わりますが、それは少数であろうと考えられます。 遺骨は事故で亡くなった183人のうちの誰かであることはほぼ確実と思われますが、80年以上も経っていて遺族のほとんどは孫や曾孫世代でしょうから判明率が落ちます。 またこれまで集めた遺族のDNAは80人分といいますから、半分以上がまだ収集できていないことになります。 ですから発掘された遺骨の多くは、遺族の確定が困難と思われます。 また朝鮮人か日本人かの区別もできませんから、韓国側に引き取ってもらう訳にもいかないでしょう。

今のところ遺骨は警察が預かっているようですが、事件性がない限り警察にいつまでも保管する義務はありません。 最終的な保管責任は遺骨発掘作業の主体者であり遺骨発見者でもある「刻む会」にあると考えられます。 ですからDNA鑑定しても身元不明となった遺骨、あるいは遺族が引き取りを拒否したような遺骨は「刻む会」に戻されることになるでしょう。 そして「刻む会」は日本政府の関与を要求しています。 しかし身元不明などの遺骨について政府がどのように関与できるのか、ちょっと疑問に感じます。

 「刻む会」は、〝日本は不当な朝鮮植民地支配の加害者であり韓国は被害者である、長生炭鉱事故はそのなかで起きたものだ” 〝韓国と日本の市民の力で歴史を反省しない日本政府を追及しよう”という考えを一貫して有しており、そんな団体がその後どのような動きをするのだろうかという疑問ですね。 ここは想像になりますが、日韓間の歴史紛争のさらなるネタを作るのではないか、ということです。 また身元が判明したら今度は遺族が日本政府を相手に損害賠償請求の裁判を起こすのではないか、ということも考えられます。 そうならないことを祈るのみです。

特別永住の在日台湾人2026/05/16

 岩波新書の『在日朝鮮人 歴史と現在』を読んでいたら、次の一節に出会いました。

中国人といえば、在日朝鮮人と同様に戦前から日本に定着して横浜や神戸、長崎に中華街をつくってきたオールドカマーも少なくないが、そのほとんどは日本国籍を取得し、2010年の特別永住者の数は、2600人ほどにすぎない。 (水野直樹・文京洙『在日朝鮮人 歴史と現在』岩波新書 2015年1月 211頁)

 ここにある「2010年の特別永住者の数は2600人ほどにすぎない」というのは、この本では「中国人」と書かれていますが、実は〝植民地支配下の台湾で生まれた台湾人とその子孫”という意味です。

 「特別永住」というのは、「日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法」(平成3年5月10日 法律第71号)という法律に基づく在留資格を有する人たちです。 詳しく言うと、「戦前から昭和二十年九月二日以前時点で日本列島(内地)に居住していたかつて日本国籍だった人々で、サンフランシスコ講和条約により日本国籍を失った人、それと彼らの直系卑属かつ日本出生で居住継続者」となります。 難しい文章ですね。 これを読んで直ぐに分かる人は少ないでしょう。

 分かりやすく言うと、日本は朝鮮と台湾を植民地支配していたので、当時の朝鮮人や台湾人は日本国籍を有していていました。 しかし1945年の敗戦によってその日本国籍を失うことになり、1952年のサンフランシスコ講和条約によって正式に日本国籍を喪失したのです。 日本で暮らしている朝鮮人や台湾人はかつて日本の被植民地人として日本国籍を有していたという事情のために一般の外国人とは違う在留資格(いわゆる「126-2-6」「4-16-2」等)を有することとなり、1991年(平成3年)にまとめて「特別永住」という資格となったのでした。

 「特別永住」といえば多くの人はすぐに朝鮮人を思い浮かべるようですが、実は台湾人も該当しています。 何十年か昔、在日朝鮮人65万人に対して、在日台湾人は2万人なんて言われていたのを記憶しています。 上述の岩波新書によれば、後者の台湾人は2010年に2600人にまで減っており、その要因は「日本国籍の取得」つまり帰化だそうです。

 特別永住の台湾人の数について、法務省の外国人統計を調べてみました。 なお台湾人は、国籍欄に近年までは「中国」と記されていました。

 

・1969年 中国人 126-2-6 13,353人 4-1―6-2 3,718人  計 17,071人

・1974年 中国人 126-2-6 8,192人 4-1-16-2 3,702人  計 11,894人

・2010年 中国人                   特別永住   計 2,668人

・2025年 台湾・中国人                特別永住   計 1,610人

 

 在日台湾人は、1991年の特別永住制度発足以前は外国人登録の在留資格欄に「126-2-6」「4-1-16-2」等と記されていました。 その人数を合計すると、後の特別永住に相当する在留資格者の数になります。(なお「4-1ー16-3」はわずかの数字なのでここでは除外した) 1974年の数字は5年前の1969年の数字に比べて大きく減少していますが、これは1972年の日中共同声明により日本が台湾(中華民国)の承認を取り消したことを契機に、多くの台湾人が日本に帰化したためです。

 また台湾特別永住者は国籍欄に「中国」「台湾」などが記されますが、「米国」や「イギリス」に帰化するなどで第三国の国籍を有する台湾人も存在します。 それでも特別永住という在留資格は変わりません。 ただし統計では「米国」「イギリス」などの国籍を有する特別永住者の数は分かりますが、これは韓国・朝鮮もを合わせた人数ですから、台湾ルーツだけの数は分かりません。

米国籍などの特別永住者     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/09/15/1798285

 ところで上述の岩波新書では特別永住の台湾人は2010年で2600人ほどとしていますが、実際は2668人でした。 それから15年経った2025年に1610人と更に大きく減らしています。

 在日台湾人はもはや問題ではなくなっており、その要因は彼らの帰化あるいは少子高齢化などによる人口減少ということです。 これを考えるならば、同様である在日韓国・朝鮮人問題の将来を見通すことができるでしょう。 それは特別永住の在日韓国・朝鮮人の数の減少が在日問題の解決につながるということです。 これは問題の当事者がいなくなれば問題そのものが消滅するという、考えてみれば当たり前の話です。

 在日韓国・朝鮮人は、①帰化、②日本人との婚姻、③少子高齢化という三つの要因によって特別永住者数が減少してきました。 それに伴い社会からの関心が薄れて、在日問題は解決することでしょう。 つまり在日活動家たちによる「民族受難とそれに対する闘い」という努力によってではなく、在日自身の①~③の動向によって自然と解決に向かうということです。 

 今は代わりにと言ったらなんですが、近年に来日した外国人が大きな問題となっており、これがこれから増幅していくことでしょう。 現在のヨーロッパのように、移民問題が社会を大いに揺るがすことになるかも知れません。

【拙稿参照】

在日韓国・朝鮮人自然消滅論(1)    https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/11/26/9734747

在日韓国・朝鮮人自然消滅論(2)     https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/12/01/9736094

 

【特別永住に関する拙稿】

特別永住の経過             http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/08/25/1750381

特別永住制度の変更は非現実的      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/09/01/1762857

在日の法的問題は解決済み        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/09/08/1781500

米国籍などの特別永住者         http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/09/15/1798285

『現代韓国を学ぶ』(3)        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/06/08/6472916

在日の特別永住制度           http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/06/14/6864389

トルコ国籍の特別永住者?!―毎日新聞 ― http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/10/27/7870629

特別永住者数の推移           https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/07/16/9129169