昔の朝鮮女性には名前がなかった(4)―創氏改名 ― 2026/09/24

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/09/18/9877228 の続きです。

 水野直樹『創氏改名』(岩波新書 2008年3月)では、朝鮮女性たちが1940年に施行される創氏改名について、どう考えていたかを記述しています。 その部分を引用・紹介します。

氏を強制される女性

創氏改名を考える際に、それが女性にとってどんな意味をもっていたかについて論じられたことはほとんどない。

創氏は男性以上に女性に大きな変化をもたらすものであった。 それまで既婚女性は父の姓を継いでいたが、氏制度の導入によって家の(舅または夫の)氏を名乗ることになったからである。 それは、氏を日本人風にするかどうかとは異なる問題であった。 戸籍の「姓及本貫」欄に記載されるものの、既婚女性はすべて法律上の名前としては新たな氏を名乗らねばならなくなったのである。 新たな氏の決定権は戸主である舅や夫がもつため、妻は創氏に関与しえない。 にもかかわらず、女性は一方的に氏を変えねばならなかった。 また、結婚をした場合、それまでは姓は変わらなかったが、氏制度が導入されたことによって女性は婚家の氏を名乗ることになった。

当時発行された緑旗連盟日本文化研究所編『氏創設の真精神とその手続』は、家の称号である氏を付ければ、女性の地位が向上すると論じている。 女性は子どもを生むものとしか考えられていなかったのが、家への、夫への従属が強まることを無視し、創氏を合理化・正当化する議論といわなければならない。

創氏による変化について、当時の女性たちがどのように感じ、考えていたのかを示す資料はきわめて少ないが、いくつかの資料から聞くことができるのはインテリ女性の声であって、女性全体からすればごく一部の層に限られていることに注意しておかねばならない。

朝鮮日報社が発行する雑誌『朝光』1940年1月号は、氏制度創設に対する女性たちの感想を掲載している。

崔以権(朝鮮YMCA活動家、夫は延禧専門学校教授・白楽濬)は、「ずいぶん前から人びとは私の姓を呼びませんし、私の子どもたちが私の姓に従うわけでもありませんから、私はとっくに私の姓を失ったのではないでしょうか? いまさらこと新しい感想など浮かびません」と述べている。 これは一般庶民女性を代弁しているといえるかも知れない。 (以上、187~189頁)

 李朝時代、賤民を除くほとんどの女性たちは父の姓を受け継ぐのですが、その下に個人の名前がありませんでした。 大部分の女性は長年にわたり名前がなくても不自由なく生活してきたということです。 それが1910年の日韓併合にともなって戸籍が編成されて、父系の姓とともに本人自身の名前が記載されることになりました。  そしてそれからわずか30年後の創氏改名で、女性たちは父系の姓の代わりに新たに家族名として夫の姓がつけられたのでした。 つまり夫婦別姓から夫婦同姓になったというわけです。

 その時の女性たちの感想は、上述の崔以権が「ずいぶん前から人びとは私の姓を呼びませんし、私の子どもたちが私の姓に従うわけでもありませんから、私はとっくに私の姓を失ったのではないでしょうか? いまさらこと新しい感想など浮かびません」と語った通りだったと思われます。 著者の水野直樹さんもこの発言を、「一般庶民女性を代弁しているといえる」と評価しておられます。

 つまるところ、30年前の日韓併合時までは他人と区別する個人名そのものがなかったし、戸籍制度の導入により名前がつけられてもほとんど使うことがなかった女性たちにとって、夫の姓に変えて夫婦同姓にする創氏改名はさほど重要な問題ではなかったのでした。

 

新女性の立場

植民地時代に近代的な教育を受けた新女性にとって、創氏はある種の喪失感をもたらすものであった。 毛允淑(詩人、夫は普成専門学校教授 安浩相)は、次のように述べる。

「毛允淑を安允淑と呼び変えたなら、その語感からくるなじみの薄い気分あるいは印象は、お粥でもご飯でもないような感じを起こさせます。 日常の習慣になればわかりませんが、はじめはそんなものか、自分を忘れてしまったような寂しい事件のように思われます。」

張文卿(医師)も、「今までの私の〝姓”‥‥。 私の個性の小さな一つの表徴がなくなり、夫の姓に従うのは、何か持っていたものを捨てるようで、寂しくはあります」と述べて、大事なものを失う寂しさを吐露している。

雑誌『三千里』1940年3月号に掲載された「戦争長期化『家庭生活』主婦座談会」でも、創氏問題が取り上げられている。 座談会に出席したのは、「主婦」というよりインテリ女性というべき作家や新聞記者などである。

東亜日報記者の黄信徳(夫は東亜日報記者 任鳳淳)は、「夫の姓に従うのは、従えというなら従います。 女性というのは、父の姓に従おうが、夫の姓に従おうが、別に根本的な問題になることはないですから」といいながら、「四文字の姓名が必要なら、任黄信徳にしようと思います」と、夫婦の姓を組み合わせた氏にする考えを明らかにしている。 そのような氏は認められないものだが、男女平等を求める気持ちを表明したものといえる。

黄信徳がさらに、声明を変えたらそれを広く認識してもらうのに苦労することになると述べたのをうけて、崔貞煕(作家)は、名前が作家の「生命」であり「価値票」(値段札)だから、戸籍上の名前とは別に「雅号」「別名」の使用が認められるべきだと主張している。

この座談会から聞くことのできるのは、氏制度によって名前を男性に支配されるようになることへの批判の声である。  (以上、189~190頁)

 植民地時代は一応近代国家に入った段階とされており、そこでは新しい感覚をもった「新女性」が誕生します。 ただし当時の朝鮮女性の就学率は10%ほどで、大半が文字を読めませんでしたから、「新女性」は植民地朝鮮では少数のインテリ女性だったといえます。 新女性は作家や記者、医師などの知識人階級でした。 そういう「新女性」たちが、夫婦同姓へ変わる創氏改名についてどのような感想を持ったのでしょうか。

 毛允淑や張文卿は、それまで夫婦別姓でやってきたものが馴染みのない夫婦同姓になってしまうことを「寂しい」と発言しています。 また黄信徳は「女性というのは、父の姓に従おうが夫の姓に従おうが別に根本的な問題になることはない‥‥任黄信徳にしよう」と言っています。 私はこの発言を、〝名前なんかどうでもいい問題なのだから、夫と自分の姓を組み合わせて「任黄信徳」にしたっていい”という意味だと受け取りました。 ただし水野さんは「男女平等を求める気持ちを表明したもの」と言っておられます。

 水野さんはこの座談会を「氏制度によって名前を男性に支配されるようになることへの批判の声」と評価しておられます。 しかしそれは〝夫婦同姓=男性による女性支配”という近年日本のフェミニズムの考え方でもって何十年も昔の歴史である創氏改名を裁いたといえるもので、私はいかがなものかと思います。 何故ならこの評価がそのまま行けば、〝夫婦別姓の朝鮮社会では女性は男性に支配されていなかった”となってしまうからです。 朝鮮社会では厳しい男尊女卑ゆえに夫婦別姓となっていたのですから、これはないでしょう。 夫婦が別姓であろうが同姓であろうが差別のあり方が違っているだけで、女性差別そのものは変わらないと考えます。    (終わり)

昔の朝鮮女性には名前がなかった(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/09/06/9874968

昔の朝鮮女性には名前がなかった(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/09/12/9876072

昔の朝鮮女性には名前がなかった(3) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/09/18/9877228

昔の朝鮮女性には名前がなかった(3)―閔妃 ― 2026/09/18

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/09/12/9876072 の続きです。

 朝鮮の近代以前の歴史上において有名な女性といえば、一番に閔妃を挙げることができるでしょう。 その次に許蘭雪軒ですかね。 他にも何人かいますが、この閔妃と許蘭雪軒の名前について、かつての拙ブログでは次のように論じたことがあります。

「閔妃」のウィキペディアでは本名として「閔玆暎」が出てきます。 しかし李朝時代の朝鮮の女性は賤民でなければ名前がありません。 従って「閔玆暎」はあり得ないと思っていたところ、小説家がつけた名前だそうで、これで納得。 近年にフィクションとして付けられた名前ということです。 しかし韓国ではこれが歴史事実として定着しつつあるようです。

【追記】  「閔妃」はウィキペディアでは本名として「閔玆暎」となっていますが、これはどうやら鄭飛石という小説家が作った名前のようです。 朝鮮の歴史上の有名女性に「本名」があったなんて最近になって出てきたことで、これが小説だという説明には、成程そうだろうと思います。

同じく李朝時代の有名女性詩人である「許蘭雪軒」は雅号ですが、ウィキペディアによれば「許楚姫」という本名があったとされています。 しかし李朝時代の歴史では、どの歴史を読んでも当時の朝鮮の女性は名前がなかったとなっています。 もしあったとすれば幼名か通称名などと考えられます。 「許楚姫」なる名前は根拠となる歴史資料が見当たらず、やはり小説とかドラマとかで創られたものではないかと思うのですが、どうなんでしょうね。 

【追記】  許蘭雪軒の名が「楚姫」だとする資料は、弟の許筠の『惺所覆瓿藁』という詩文集にあるようです。 もしそうなら、家族間だけで使われていた幼名の可能性があります。

以上 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/06/11/9691981 の【追記】

 

 許蘭雪軒について資料を探せなかったですが、閔妃の「本名」については韓国の나무위퀴で次のように説明されているのを見つけました。  https://namu.wiki/w/%EB%AA%85%EC%84%B1%ED%99%A9%ED%9B%84/%ED%98%B8%EC%B9%AD

명성황후/ 호칭 2. 본명

널리 알려진 이름은 민자영이다. 그런데 이 '자영'은 실제 본명이 아니라 소설이 출처라는 견해가 있다. 줄리에트 모리오의 《운현궁》, 정비석이 쓴 《소설 민비》 등에서 나온 작명이라는 것이다. 다만 정비석은 창작이 아니고 어느 연구자의 이야기를 들은 후 적었다고 말했다.

한편 아영이 본명이라는 주장도 있는데, 이에 따르면 학술 자료의 기본으로 쓰이는 사료에서 '아영'으로 기록되었다고 한다. 그러나 정작 조선 왕실이 편찬한 《열성왕비세보(列聖王妃世譜)》나 이왕직이 이어서 편찬한 《열성황후왕비세보 (列聖皇后王妃世譜)》에는 명성황후의 본명이 전혀 보이지 않는다. 그러므로 이는 출처가 확인되지 않는 허위 정보일 가능성이 크다.

그 외에 아명은 항렬을 따른 '정호'(貞鎬)였다는 말도 있으나, 당시 여성이 남성과 동일한 항렬자를 쓰는 경우가 거의 전무하기 때문에 이 역시 사실로 보기 어렵다. 여흥 민씨 집안에서는 "입에서 입으로 전하다보니 바뀌었다"며 '아영' 대신 '자영'을 밀고 있다.

 訳してみました。

明成皇后(閔妃の追号)/呼称  2、本名

広く知られている名前は閔玆暎である。 しかしこの「玆暎」は実際の本名ではなく、小説が出所であるという見解がある。 ジュリエット・モリオの《雲峴宮》や鄭飛石が書いた《小説 閔妃》などで命名されたというのである。 ただし鄭飛石は、創作ではなくある研究者の話を聞いて書いたと言っている。

一方で、アヨン(亞榮?)が本名だという主張もあるが、これによれば学術資料の基本として書かれる資料に「アヨン」と記録されたという。 しかし実際に朝鮮王室が編纂した《列聖王妃世譜》や李王職が引き続き編纂した《列聖皇后王妃世譜》には、明成皇后の本名が全く見当たらない。 従ってこれは出所が確認されていない虚偽情報の可能性が高い。

それ以外に、幼名はハンニョル(同じ血族内で世代を表わす名前)に従って「貞鎬」だったという話もあるが、当時の女性が男性と同一のハンニョル字を使う場合はほとんど皆無なために、これもやはり事実と見るには難しい。 なお驪興閔氏(閔妃の血族)の家では「口から口へ伝えるうちに変わった」として、「アヨン」の代わりに「玆暎」を推している。

 鄭飛石の『小説 閔妃』は、調べてみると1980年の発表です。 閔妃の死後、85年経っています。 この小説の中で「玆暎」が出てくるようです。  鄭は某研究者から聞いた話だとしていますが、その研究者の具体名を明らかにしておらず、また根拠となった資料名も挙げていないので、やはり彼の「創作」と見て間違いないと思われます。 しかし今の韓国ではこの話が信じられていて、ウィキペディアにも歴史的事実であるかのように出てきています。

 ジュリエット・モリオは韓国に何度も滞在したことがあるフランス人作家です。 検索してみると、閔妃をテーマにした小説は1993年に発表されています。 鄭飛石の小説から13年経っており、時系列からモリオの小説に出てくる閔妃の本名「玆暎」というのは、鄭の小説からとったものと判断されます。

 「アヨン」が本名だとする説があるようです。 検索してみると、閔妃暗殺の首謀者である三浦梧楼の『回顧録』に根拠があるとしてその部分を引用しているのですが、そこには「アヨン」なる名前の人物は出てきていません。 つまり、この説もエビデンスがないのでした。

 「아명」は漢字で「児名」と書き、幼名のことです。 女の子の幼名は、例えば「大女」(長女)とか「点白伊」(顔にほくろがある)、「絶痛」(女が生まれて苦痛だ)とかがありますが、「玆暎」「貞鎬」なんていう幼名はちょっと異様に感じられます。 女性の幼名は嫁に行けば使われなくなり、ましてや戸籍や族譜などに記録されるはずがありません。 もしあれば、後世に書き加えられたと見て間違いないでしょう。 ですから驪興閔氏の族譜に記載されているとされる閔妃の幼名「玆暎」は、歴史上の事実と見ることが困難なのです。     (続く)

 

【閔妃に関する拙稿】

閔妃の写真―決着はついたはずだが‥(1)―中央日報 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/06/01/9689180

閔妃の写真―決着はついたはずだが‥(2)―中央日報  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/06/06/9690640

閔妃の写真―決着はついたはずだが‥(3)―反論   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/06/11/9691981

閔妃の写真―決着はついたはずだが‥(4)―反論   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/06/16/9693342

閔妃の写真―決着はついたはずだが‥(5)―反論   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/06/21/9694753

閔妃の写真はなかった              http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dairokujuuhachidai

(続)閔妃の写真はなかった            http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainanajuusandai

昔の朝鮮女性には名前がなかった(2)―賤民は違った ― 2026/09/12

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/09/06/9874968 の続きです。

 前回のブログで「人格がないから名がなかった」と書いたように、李朝時代の朝鮮女性には名前がないという原則が貫かれていました。  ただしそれは両班や常民など人口の大半を占める女性のことです。 ところが最下層の賤民身分の場合は違いました。 賤民の女性の場合は「人格がなかったからこそ名前があった」となるのです。 この件については下記ブログで論じたことがありますので、ご参照ください。 

李朝時代の婢には名前がある       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/03/19/8053165

李朝時代に女性は名前がなかったのか(3)http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/04/01/8061795

かつて朝鮮人女性には名前がなかった  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/12/13/9011386 

 朝鮮の大半の女性は「人格がないから名前がなかった」のに対し、一部の賤民には「人格がなかったからこそ名前があった」という説明は一見して矛盾するので説明が難しいですね。 けれど何とか理解してもらうべく、説明をやってみます。

 朝鮮社会は徹底した男系社会で、男性の系譜が最も重要でした。 その男系血縁集団は「宗族」とか「門中」とか言われるもので、それを個別に具体的に表すのが「姓氏」であり、それを証明する文書が「族譜」です。 大半の女性はそういう男系血縁社会のなかで、夫・息子・父親といった男性との関係においてのみ意味のある存在だったのでした。 だからそういった男性の名前でもって、その女性を特定していたのです。

 前回ブログ https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/09/06/9874968 の尹学準さんの伯母が「女李源伯 真城人 父趾鎬 子東成 東三」となっているのは、正にそれを表わしています。 「李源伯」は夫、「趾鎬」は義父(夫の父親)、「東成」「東三」は息子の名前であって、伯母の名前はないのでした。 夫の李源伯の立場からすると、妻の女性は「配坡平尹氏」(配偶者の女性は本貫が坡平の尹氏の家から来たという意味)と書かれたはずで、やはり名前はありません。 つまり女性は男系の宗族の中でどの男性に付随しているのかに存在意義があって、個人名は必要がなかったのでした。 「人格がないから名前がなかった」とは、こういうことです。

 ところが賤民は違いました。 賤民は男系血縁集団を形成していないので、姓氏がありません。 そして賤民たる由縁は賤民の母親から生まれたことです。 母親が賤民であることを証明するためにはその名前が必要になるのでした。 拙ブログ https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/03/19/8053165 に出てくる「夫叱徳」が正にそれです。 

 李朝時代の奴婢は両班の所有物として相続・売買されるものでしたから、飼い犬に例えれば分かりやすいかも知れません。 母犬の所有者は生まれた子犬の所有権も有しますが、その権利を主張するには母犬を特定する名前が必要になります。 子犬がメスで大きくなって母犬になれば、その子犬もまた自分の所有になります。 メス犬はこのように自分の財産を増やしてくれるもので、証明にはその名前が必要なのです。

 賤民もこれと同じと考えれば理解しやすいのではないかと思います。 ある人物が賤民であることを証明するためにはその賤民を生んだ母親が賤民であることを証明せねばならず、そのためにはその母親の名前が必要なのでした。 賤民女性は、姓氏がなくて個人名があったというわけです。 「人格がなかったからこそ名前があった」とは、そういうことです。

 近代社会では名前はアイデンティティの一つなので〝名前があることは人格が認められていること、逆に名前がないのは人格が認められていない”となりますが、かつての朝鮮はそれとは全く違う社会なのでした。 “女性には人格がないから、上中流層には名前がなく、最下層には名前があった”となります。 やはり理解するのが難しいでしょうね。

 

 ところで話は変わりますが、李朝末期の開港期~大韓帝国時代になると、欧米からキリスト教が入ってきて広がりました。 名前のなかった信者の女性には、教会で名前がつけられたようです。 日韓併合前後の時期に近代的戸籍が編製された時、女性信者はこの教会での名前を戸籍に記載されたものと推測します。 韓国および北朝鮮の近代史上で有名な女性である柳寛順や康盤石はこういう経緯で名前があったと考えているのですが、どうでしょうか。 「盤石(반석)」は聖書に出てくる「ペテロ(岩)」にちなむ名前だそうです。    (続く)

【関連拙稿】

李朝時代に女性は名前がなかったのか   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/02/29/8033782

李朝時代に女性は名前がなかったのか(2)http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/03/23/8055612

李朝時代に女性は名前がなかったのか(3)http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/04/01/8061795

李朝時代に女性は名前がなかったのか(4)http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/05/04/8083000

かつて朝鮮人女性には名前がなかった   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/12/13/9011386

李朝時代の婢には名前がある       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/03/19/8053165

許蘭雪軒・申師任堂の「本名」とは?   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/03/31/8060665

名前を忌避する韓国の女性        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/03/10/8043916

名前を呼び合わない韓国人女性たち    https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/05/14/9072220

昔の朝鮮女性には名前がなかった(1)―尹学準 ― 2026/09/06

 かつての朝鮮の女性には名前がなかったという話です。 これについては、拙ブログではこれまで何回か論じてきました(次回ブログに掲示します)。 まずは尹学準『オンドル夜話』に出てくるエピソードを引用・紹介します。 以前に一部抜粋したことがありましたが、今回はもう少し広く引用します。

在日朝鮮人―ことに日本のインテリと交流の機会が多い知識人には国粋主義者が多いようだ。 例えばこういう会話が行き交うのに幾たびか出くわしたことがある。

――朝鮮の場合、女性は結婚しても苗字が変わらないそうですね。

――もちろんです。 日本の場合、昨日まで田中○子だったのが、結婚したとたんに亭主の苗字になる。 これはいけませんね。 正に従属そのものじゃないですか。 

――そうだわよね。 女性蔑視の最たるものだわ。 朝鮮の女性は何とすばらしいことでしょう。 羨ましいわ。

――女権獲得のために大いに頑張ることですね。

この羨望のまなざしをこめて問いかけてきたのは、日本の進歩的な女性、ウーマン・パワーのリーダーの一人であった。 そのとき私はどう答えたか。

――いや、実は朝鮮の女は名前さえないのですよ‥‥。

などと正直なことは絶対に言わない。 ただニヤニヤ笑ってその場を誤魔化し、何とか話題をそらしたりするのだ。 (以上、尹学準『オンドル夜話』中公新書 昭和58年2月 74~75頁)

「女に名前がない」とはゆゆしきことだが、少なくとも族譜の世界に限っては女の名は絶対にないのである。 たとえば、李朝時代の名賢、李栗谷(1536~84)の母堂は申師任堂で、良妻賢母のかがみとあがめられているが、「師任堂」は号であって名は未詳である。 また女流詩人として有名な許蘭雪軒(『洪吉童』の作者・許筠の実姉)もしかりだ。 これほど高名な女性にさえ、号はあっても名前がないのだから、推して知るべしだろう。 (75頁)

 朝鮮の歴史上、少なくとも李朝時代は女性に名前がありませんでした。 これに似た例を日本史で探すと、平安時代に「紫式部」「清少納言」「藤原道綱母」などの女流作家が輩出しましたが、彼女らの名前は伝えられていません。 これと同じ状況だったと想定すればいいのかも知れません。 ただ日本の平安時代は1000年も昔のことで現代日本社会とは断絶していますが、朝鮮女性に名前がなかった李朝時代はほんの100年前までのことで、現在の韓国・朝鮮社会と多くの点で繋がっています。

ここでわが家の族譜について少し話そう。 二年ほど前のことだが、人づてにわが家の族譜が海を渡って来た。 四代奉祀をしなければならない小宗孫の〝自覚”をうながすためなのか、あるいは他国へ行ったきり30年近くになってもなお帰ろうとしないさまよえる小羊に郷愁を呼びさますためなのかさだかではないが、ともかく私の手元に届いたのである。  (75頁)

私は、この族譜のことでわが家の女どもから猛烈な糾弾を受けた。 たしか族譜が届いたその日の夜だと記憶するが、私は自分の家系を示しながら、親戚の構成等について説明をした。 だが、そこにはわが家の二人の娘の名前が載っていない。 この族譜は新たに編纂されて間もないときだったから、うちの二人の子供がもし男だったら、そこには間違いなく名前が記載されているはずだ。 私が女の名前は載らないんだと説明すると、とたんに「そんなのないよ!」とまず子供たちからヒナンの声があがった。 つづいて「チョッポ フンサイ」のシュプレヒコール(?)。 あたかも小生がその族譜を作った張本人であるかのごとくである。 日本生まれの娘のフンガイは無理もない。 族譜は徹底した男系中心・女系無視の記録だから。 (76~77頁)

それでは女はまったく記載されないかというと、そうではない。 たとえば小生の項だとこう書かれている。 長男だから父の名前の下に「子学準。字建相 壬申二月六日生、配安東金氏」――と。 「建相」という本人も知らない字(あざな)がついているのには驚いたが、要するに壬申の年(1932年)の陰暦二月六日に生まれ、安東金氏の女房を娶った男がこの私であるというわけだ。 この場合、女房には人格がない。 あくまで本貫が安東の金氏の家から来たということで済まされる。 人格がないから名がないのは言うまでもないが、生年月日さえ記されていない。 ただ、死んだ後だと死亡年月日と墓の場所が記されるが、これはもっぱら子孫のためだ。 子孫が祭祀の日を間違えないようにするためである。 (77頁)

妻の項に今少し述べると、私の場合は日本にいて資料が渡らなかったから省略されたのだろうが、本来なら妻の父親の名が記される。 それどころか、妻の祖父や外祖父に偉い人がいると、その名も記録されるのである。 男系中心・家柄本位もここまで徹すると見事と言うほかない。

私には女の兄弟がないから例えとして挙げられないが、父には一人の姉と妹がいる。 私の姑母(コモ)たちだ。 彼女らの記録はこうなっている。 例えば父の姉の項は、「女李源伯(ゴチック体) 真城人 父趾鎬 子東成 東三」となっている。 ゴチック体は父の名と同じ大きさの活字だが、下は小さな活字である。 読み方は、女が真城の李趾鎬の子である李源伯なる男に嫁いでおり、東成と東三を産んだということだ。 姑母は実は二人の男の他に女の子も産んでいるが、もちろん女だから載っていない。 万事がこのような状態だから、わが家の女どもから糾弾されるのも無理はない。 (77~78頁)

 女性の名前は族譜に出てきません。 女性がもし登場するとしたら夫の名前で出てくる、あるいは夫に付随しているというだけの記載でした。 その次に出てくるのは義父(夫の父親)や息子の名前です。 つまり男系の系譜こそが一番大事だったので、男性の名前だけが出てくるのです。 女性は結婚して男子を生んで、その限りにおいて初めて妻や母親としての意義が現われるのでした。 女性の存在はそれほどに軽いものだったと言うことができます。

私は、「朝鮮の女には名前すらない」ことに対して、わが家の女どもから糾弾されただけで済んだことにつくづく安堵した。 もしこのことが日本の進歩的インテリ女性―特にウーマン・リヴの闘士たちに知れたらどうなることだろうと思うと、背筋が寒くなる。 朝鮮女性に対して向けられた羨望のまなざしが一転して侮蔑のそれに変わるであろうから。 ひたすら国家、民族を愛していている愛国主義者の私にとっては、これは耐え難いことだ。 (78頁)

 最後は著者の尹学準らしく、自民族を皮肉るような笑える自虐話で終わっています。

 夫の名前でもって女性を指し示す具体例をもう一つ挙げてみます。https://ocw.kyoto-u.ac.jp/wp-content/uploads/2005/04/2005_chosenkankokugakunyumon.pdf の41~44番目に慶州金氏の族譜の一部が掲載されています。 そのなかで黄色の線で囲まれているのが女性で、「女金受采」「女朴添慶」「女李渉」‥‥等々です。 これらは上述の尹学準『オンドル夜話』に出てくるのと同じく、嫁入り先の夫の名前です。 つまり夫の名前でもってその女性を特定するもので、〝わが家からは女が生まれて○○という名前の男に嫁にやった”という記録になります。 娘には名前がないのでした。 「人格がないから名がない」というのは、その通りでした。

 かつての朝鮮女性に名前がなかったということは、現代の日本人には想像が難しいようです。 犬猫でも名前があるというのに、人間に名前がないなんて‥‥となります。 これはどういうことかというと、他人と区別する〝本人だけの名前”つまり個人名というものがなかったということです。 朝鮮女性は本人を特定する時、夫や息子の名前を使うか出身地名を呼ぶかをしていたのでした。  女性に〝本人だけの名前”というものをつけることになったのは李朝時代が終わる1910年の日韓併合前後に全朝鮮的に整備された戸籍制度で、それまでは個人名がなかったのです。

 文化人類学の崔吉城さん(故人)は、自分の母親に名前がなかったことを論じておられます。 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/05/04/8083000 

 

 女性の名前をないものとする慣習は、100年経った現代の韓国でも残っているようです。 例えば「契(계)」という女性同士で資金を融通し合う相互扶助団体(日本の頼母子にあたる)が発達しているのですが、この「契」の契約書には女性本人の名前ではなく夫の名前を使う場合が大半です。 また普段の生活でも、女性を呼ぶ時に子供の名前を使う(例えば「창수엄마 チャンスの母ちゃん」のように)のであって、本人の名前を呼ばないのが普通です。

 10年前の韓国ベストセラー小説『82年生まれ、キム・ジヨン』の解説には、現代韓国における女性の名前について、次のように書かれています。

韓国社会では結婚と同時に女性は名前を失い、「○○の母」と単に家族の機能のように扱われる。 ‥‥ 家族の中だけに限らず、ママ友やご近所同士でも女たちは互いの名字も名前も知らないことが多い。 (チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』斉藤真理子訳 筑摩書房 2018年12月 185頁)

      (続く)

『証言・北朝鮮帰国者』を読む(4) ― 2026/08/31

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/08/26/9872961 の続きです。

あらためて、日本人、日本社会の責任は何かを考える。 朝鮮人への差別と貧困がなかったら、あれだけの数は帰らなかったはずだという考えに100%同意する。  (516頁) 

 これはこの本の編者を代表する石丸次郎さんが最後のまとめである「おわりに」に記した一文です。 ちょっと疑問があります。 日本に「朝鮮人への差別と貧困」があったから帰国したのだから、「日本人、日本社会に責任」があると書かれている点です。

 帰国者は「朝鮮人への差別と貧困」の日本から自ら望んで脱出したはずです。 帰国しようと決断した理由が、日本での「差別と貧困」でした。 ところが北朝鮮の清津に到着した時、その街と人の想像を絶する姿に衝撃を受け、〝騙された”として下船を拒否する人が現われ、あるいは〝来た船で日本へ帰らせてくれ”と要求する人が出てきました。 そして先に帰国した人から、〝なぜこっちに来たのか! なぜ日本に止まらなかったのか!”と責められました。 ですから北朝鮮に着いて実際の様子を見たとたんに、「差別と貧困」に満ちた日本にまた戻ろうとしたことになります。

 とすれば、帰国事業において「差別と貧困がなかったら帰らなかったはず」という石丸さんの言葉は、説明が足りないように思えます。 石丸さんは「日本人、日本社会の責任」を問いましたが、これは日本人にも関心を寄せてほしいという意味で「責任」と言ったのでしょうか。

【参考】  https://news.yahoo.co.jp/articles/233234e4a6bf4070111c7d09f2ed524348585053?page=7 

 

 そして辛淑玉さんの発言にも疑問を抱きました。

私たちに何ができるか? 辛淑玉はこう話す。 「帰国者の歴史を記憶し、記録に残すこと。 それと、日本語を母語とし、日本に住むものとして、日本で人権を獲得していくこと。 自分の生きている足場で頑張らない限り、社会は変えられない。」 (511~512頁)

 彼女の叔父さんが北朝鮮に帰国しており、一家は日本に残っている辛さん家族に金や時計、服、果ては自動車まで送るよう求めていました。 北朝鮮が凄まじいまでの人権侵害の国であることは彼女も分かっておられます。 しかし、その彼女がいま自分たちのなすべきこととして「日本で人権を獲得していくこと」と語っているところに大きな違和感を持ちました。

 辛さんは日本ではあれほど自由奔放に発言しながら何の処罰をも受けずに過ごすなど人権を大いに享受しておられて、そんな日本で「人権の獲得」の活動をする意味は何か?という疑問です。 日本での自分たちの人権の獲得が北朝鮮の人権状況の改善につながるとは、とうてい考えられないからです。 彼女の文章や発言はいくつか読んだことがあって〝極端なことを言う人だなあ”と思っていましたが、身内に北朝鮮帰国者がおられると知ってからは〝この人の人権感覚は異常ではないか”と思うようになりましたね。

 

1965年の日韓基本条約及び日韓法的地位協定により、韓国籍の在日は「特別永住者」の在留資格が認定された。 これにより、韓国籍のみに限るが国民健康保険への加入が可能になった。  (333頁)

 これはこの本で書かれていた一文で、明白な間違いがあります。 日韓条約に基づいて認められた在日韓国人の在留資格は「特別永住者」ではなく、「協定永住者」です。 またこの条約では在日韓国人(韓国籍者)の国民健康保険について言及されていますが、条約の相手国が韓国だったから「韓国籍のみに限る」となっただけです。 実際は、日本政府は国民健康保険の加入を「韓国籍」だけでなく同じ歴史経過を持つ「朝鮮籍」にも認めたのでした。 そして日本政府は日韓条約の26年後の1991年に、「韓国籍」も「朝鮮籍」も一緒にまとめて「特別永住者」として同等の扱いをしました。

 

 『証言・北朝鮮帰国者』に関しては、これで終わります。 ところでこの北朝鮮帰国事業に協力・支援した日本人から、その時の思い出話を10年ほど経った1970年代ですが、聞いたことがあります。 日朝協会の人でしたかねえ。 新潟で北朝鮮に行く船に乗り込む朝鮮人に「おめでとう、元気で行ってください」と激励しながら握手をしていきました。 その人は男性でしたから握手した相手方の朝鮮人も男性で、手や指がない、あるいは手が震えている人が多いのに気付いたとおっしゃるのでした。

 その当時は石炭から石油への転換、いわゆるエネルギー革命に入った頃で、炭鉱が日本各地にまだ多く残っていました。 その炭鉱夫として朝鮮人が多数働いていたのです。 炭鉱は労災事故の多いところで、ベルトコンベアなどの機械で指や手を切断することが多々あったのでした。 また「手が震える」と聞いて、昔の朝鮮人をよく知る人には直ぐにピンとくるでしょう。 そう、アル中です。

 日朝協会は北朝鮮との友好を目的とする団体で、そこでは朝鮮総連の活動家つまりインテリばかりを相手にしてきたそうです。 ところが帰国者は在日朝鮮人のあらゆる階層が含まれていましたから、下層階級と言えるような人もたくさんいたのでした。 日朝協会の人は本当の意味での庶民に出会い、〝それまで「日朝人民の連帯」なんて言ってきたが、それは上流の知識人だけを相手にするものだったことに初めて気が付いた”とおっしゃっていたのが、印象に残っています。

 こんな話を聞いたことがありましたので、今回の本でも手や指のない元炭鉱夫やアル中の人が出てくるのかなと期待(?)していたのですが、全く出てきませんでしたね。  

 

 最後になりますが、〝日本政府が在日朝鮮人を厄介者扱いして日本から追い出した”とか〝日本が在日を差別・抑圧していたから在日は帰国せざるを得なくなった”とかいって、〝日本にも責任がある”というような主張があるようです。 本稿冒頭の石丸さんの発言もその一つかと思われます。

 しかし北朝鮮帰国事業はあくまで本人の意思を尊重して遂行されたもので、在日は自由な選択として帰国を選んだというのがまぎれもない事実です。 〝騙した北朝鮮と朝鮮総連が悪いのか、それとも騙された本人が悪いのか”を問うことはできますが、日本に責任を問うことはできないと考えます。

 帰国事業は、〝ある程度の暮らしが保障される自由主義国家”から〝飢餓が常態化している極貧の社会主義国家”へ10万近い人が平和的に移動したという、世界史的に見ても極めて稀有な事例として記録されるべきものです。 そして『証言・北朝鮮帰国者』はそれを記録した貴重な資料なのです。

 最後に、日本と北朝鮮との間の最大の重要懸案事項は拉致問題です。 帰国事業の解明が北朝鮮社会の変化を促し、拉致問題の解決に繋がることを願っています。   (終わり)

『証言・北朝鮮帰国者』を読む(1)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/08/13/9870656

『証言・北朝鮮帰国者』を読む(2)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/08/20/9871862

『証言・北朝鮮帰国者』を読む(3) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/08/26/9872961

『証言・北朝鮮帰国者』を読む(3) ― 2026/08/26

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/08/20/9871862 の続きです。

そして1970年代末、帰国者の暮らしを変える新たな要素が加わった。 朝鮮総連による祖国訪問事業が始まって親族間のつながりが大きく回復し、それに伴って「在日マネー」が流入したのだ。  (366頁)

国交のない北朝鮮への在日朝鮮人の渡航について、日本政府は再入国を認めないなど多くの制約を課していたが、1970年代前半から徐々に緩和され、飛行機便を利用した中国経由の短期訪問が始まった。 1979年8月12日からは、朝鮮総連が三池淵号(のちに万景峰号に代わる)を投入して、日朝間直行の短期祖国訪問が始まった。 1980年には、日本政府が再入国を許可した3249人が北朝鮮に渡航した。 20年近くにわたって会えなかった肉親との本格的な再会が始まったのである。

日本親族との絆が回復した帰国者の中には、経済的な支援を受けて、それまでの食うや食わずの疲弊した暮らしから富裕層に浮上したケースが少なくなかった。 インタビューした人の中には、訪問団を載せた船を「宝船」、あるいは「タカリ船」と呼ぶ人もいた。

一方で、在日朝鮮人がもたらした日本円は、厳格な北朝鮮の社会主義統制を変質させる一因となった。 また、訪朝者の増加に伴って外部世界の情報や文化が流入拡散した。 北朝鮮の閉鎖体制に穴が開くことになったのである。  (以上、367頁)

 1970年代末から朝鮮総連による短期祖国訪問事業が始まります。 それまでは、日本に残った者は北に帰国した家族と手紙等の辛うじてやり取りをするだけで、直接顔を見ることが出来なかったのです。 それが出来るようになりました。 私の周辺でも行ってきたという人が何人かいて、そのうち二人ほどから直接話を聞きました。 話を聞いたといっても、帰国した家族がどのような暮らしをしているかなどの詳しい話は全くなく、一人は北朝鮮の観光地の写真などを見せて「北朝鮮もいい所だった」と言っていたのを記憶しています。 後から考えてみるに、〝周囲の日本人にはこのような話をして宣伝しろ”と言われていたのではないかと思われます。 もう一人は、周りに他に誰もいない場所で「北鮮で太っているのは金日成だけや」と言っていたのが印象的でしたね。

 「宝船」「タカリ船」とは、なるほど言い得て妙です。

 

1976年に朝鮮総連幹部だった祖父母と3人で北朝鮮に渡った金柱聖は、平壌で特別待遇を受ける総連幹部の子供たちの暮らしに接した。 彼・彼女らは、「総連幹部子女合宿」(以下、幹部子女合宿)という専用の寄宿舎で暮らした。 柱聖によれば、親が総連中央や地方本部の幹部と富裕商工人の子供たちは平壌、支部の幹部の子供たちは地方都市の宿舎に送られたという。  (379頁)

柱聖や栄三らの話を総合すると、幹部子女合宿は1960年代半ばにでき、地方では、清津、咸興、吉州、元山、沙里院、平城、新義州などにあったことになる。 平壌の幹部女子合宿生は、平壌市内の大学に入学できる特権があったという。

柱聖によると、1979年までは日本から総連幹部の子供たちが続々送られてきたが、北朝鮮の実情が日本に知れ渡るにつれ、親が帰国させなくなった。 学生数が減った幹部子女合宿は次第に統合されていき、1980年代にはほぼ平壌だけになった。 (以上、380頁)

平壌の幹部子女合宿生の待遇と暮らしぶりは、一般学生とは天と地の差があったという。‥‥ 幹部子女合宿はまったく異世界だった。 「合宿所の中はオール日本語。 建物と水と空気だけが北朝鮮製で、あとは全部日本製」と柱聖は表現する。

「どの部屋にも日本のカセットデッキがあって、1970年代の日本の歌謡曲やポップソングがわんわん流れてる。 日本の雑誌も見るし、麻雀も将棋もやる。 合宿所の『ゲンチャン』の先生たちは見て見ぬふりでした。 規律どおりなら、朝6時に起きて体操から集団生活を始めないといけないけど、言うこと聞かへん。 学校もあまり行ってなかった。 10時ぐらいにのそのそ起きてタクシーを呼んで、高麗ホテルにまず行くんですよ。 遊んで食べてサウナしてビリヤードして、ボーリング場に行って、夜にタクシー乗って帰って来る。 正門の前にタクシーが10台くらい停まっていました」  (以上、381~382頁)

韓徳銖の息子の韓宇哲など、金柱聖が「親の銘柄が違う」と表現する総連中央の大幹部や大物商工人の娘や息子たちの暮らしは「別格中の別格だった」と言う。 中には、日本から年間数百万円の仕送りを受けている者もいた。 だが、彼らが贅沢三昧をして素行が悪いことは、次第に平壌でも噂になり、批判の対象になっていったそうだ。 日本の総連本部にも伝えられたはずだと柱聖は言う。 (382頁)

 帰国者の中で、朝鮮総連の大幹部の子供たちは非常に優遇されたことは知っていましたが、「総連幹部子女合宿」という特別な宿舎が作られていたのですねえ。 そこでは他の一般の帰国者とは処遇が全く違って、好き放題・豪華三昧・特権の生活をすることができました。 しかし北朝鮮の実情が知られるにつれ、そんな大幹部の家族さえも続けて帰国しようとする気持ちが失せていったようです。

 

「早く帰国した人だと(日本を離れて)16年が過ぎてるじゃないですか。 仕送りが続いている家と途切れた家が、はっきり区別できるんですよ。 びっくりするくらい全然違いました」  (361頁)

1970年代半ばには、帰国者の中でも相当な階層分化が起こっていた。  (363頁)

日本の親族からの支援の有無は、深いわだかまりも生じさせた。 支援のない帰国者について「話にならない。 乞食だよ。 ある者はある者同士で集まった。 金のない人とは道で会ったら挨拶はしても、それ以上親しく付き合わなかった」という。 1970年代に日本に住む姉から音信が途絶えた金綾実は、仕送りがない帰国者たちが1980~90年代になって現地の人から「コジポ」と蔑まれるようになったという。 「コジ(乞食)の帰国同胞」という意味だ。  (390頁)

 帰国者のうちで、日本の家族からの仕送りが継続的に来る人は何とか生活することができましたが、仕送りが途絶えた家は非常に惨めな生活を送らざるを得ませんでした。 帰国者にはそういう階層分化が起こり、深い溝ができたようです。 同じ帰国者同士、みんなで助け合うなんてことはなかなか難しかったのでした。 仕送りが途絶えた人は乞食の帰国同胞という意味の「コジポ」と蔑まれたとは、あまりに悲惨すぎますね。  

 

 在日の北朝鮮帰国者が脱北して、日本で出版した手記は何冊かあります。 私は大体読んでいました。 余りに凄まじい体験談で、悲惨すぎて実際の話なのか疑わしく思うほどでしたが、真実と言うしかありませんでした。 『証言・北朝鮮帰国者』でも同様です。 今回は私が新しく知ったことや忘れてしまっていたことなどを中心に書いてみました。

 北朝鮮帰国事業に関心のある方はぜひ『証言』をご購読ください。 また菊池嘉晃『北朝鮮帰国事業―「壮大な拉致」か「追放」か』(中公新書 2009年11月)も必読書です。   次回は私の感想です。        (続く)

『証言・北朝鮮帰国者』を読む(1)   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/08/13/9870656

『証言・北朝鮮帰国者』を読む(2)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/08/20/9871862

『証言・北朝鮮帰国者』を読む(2) ― 2026/08/20

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/08/13/9870656 の続きです。

1974年に「日本人妻自由往来実現の会」(代表・池田文子)が発足した。 同会によると、1500を超える家族が参加し、そのうち3分の2ほどが北朝鮮に渡った肉親と音信不通になっていたという。 この問題は国会で繰り返し取り上げられ、日本政府は赤十字を通して、北朝鮮当局に安否確認と里帰りについて交渉を求めた。 (241頁)

北朝鮮政府は、日本人妻に対して金銭的な支援を行なっていた。 時期ははっきりしないが、1980年代以降のことと思われる。 証言によると、居住地ごとに日本人妻の集まりが組織され、そこで毎月支援金を受け取っていたという。 この集まりを楽しみにしていたという人が多い。 支給額は、証言によって20~80ウォンとバラツキがあった。 また、食料も別途支給された。‥‥ これら日本人妻への特別支援は「党の配慮」という名目で行なわれたそうだが、時代によって変化があり、不定期で内容もまちまちだったようだ。  (242頁)

北朝鮮政府が日本人妻への配慮を始めた理由は何か。 前述の「日本人妻自由往来実現運動の会」による働きかけがきっかけとなって、日本政府から赤十字ルートでたびたび里帰りや安否確認について交渉を求められたこと、1980年代に在日家族の北朝鮮訪問団が頻繁に来るようになり、「日本人妻は党の配慮で幸せに暮らしている」という「実績」をつくる必要に迫られたことなどの理由が考えられる。 もちろん1990年から日朝の外交交渉が始まったことも大きく影響したはずだ。 東西冷戦構造の激変を背景に、1989年に竹下内閣が日朝関係改善の意思を明らかにし、翌年に自民党、社会党の代表団が訪朝して金日成と会談、日朝国交正常化に向けた協議が始まることになった。 日本人妻の問題も議題のひとつになった。  (242~243頁)

 1970年頃に、「金日成よ!日本人妻を返せ!」というビラが各地の電柱に貼られていたことを記憶しています。 ですから、そういう市民団体があったことは知っていました。 しかし当時の私は左翼がかっていましたので、どうせ右翼のでっち上げだろうと思って関心を持たないようにしていましたね。

 ところが国会で取り上げられ、政府も赤十字を通して交渉していたといいますから、かなり影響力のある運動だったのですねえ。 そのために北朝鮮では帰国してきた日本人妻を「配慮」せざるを得なくなりました。 また朝鮮総連は「自由往来実現の会」の運動を「反共和国キャンペーン」だと反発していましたが、動きは鈍かったようです。 おかげで日本人妻は、ほんの僅かですが「党の配慮」をもらえるようになったのですね。 姑息としか言いようがありませんが、北朝鮮らしいやり方です。

 

金日成の「教示」と金正日の「マルスム」(お言葉)に服従しないことは朝鮮革命に対する罪と見なされるようになった。 金父子と労働党に対してはもちろん、政治や経済への些細な不満を口にしただけで、「マル反動」(言葉による反動行為)と見なされ批判・処罰されるようになった。 相互に監視して保衛部や安全部に報告する「密告体系」が整えられていき、地域や職場や学校、ひいては私的な酒席の言動まで監視された。 70年代半ばから、「マル反動」で多数の帰国者が政治犯となった。  (284頁)

 「マル反動」という言葉はこの本で初めて知りました。 検索してみると、昔からある言葉のようです。 具体的にどんな言動が「マル反動」なのかについて、「日本の列車の速度は時速168キロだが、ここは35キロだ。 まるで国の発展速度と同じだ」(314頁)、「金正日は、本当はロシアで生まれた」(316頁)といった酒席などでの発言だったとされています。 事実を言ってはならないのが、北朝鮮です。

 

聞き取りした50人のうち8人が、1970年代に帰国した人たちであった。 彼・彼女らは、1960年代に帰国した人たちから「サイキンカエリ」と呼ばれ、「なぜ、今頃返ってきたのか?」と決まって嗤笑するように尋ねられたという。 1960年代帰国者が日本の家族や知人に宛てて苦境を訴えた手紙を通じて、総連が宣伝した「地上の楽園」とはかけ離れた北朝鮮の生活実態が、在日朝鮮人社会である程度知れ渡ったはずである。 愚かにもそれを知らなかったのか?というわけだ。  (332~333頁)

1960年代の帰国者は、1970年代の帰国者を「サイキンカエリ」「サイキンキコクシャ」と呼んだ。 一方の1970年代の帰国者は、1960年代の帰国者を「ムカシカエリ」「古狸(ふるたぬき)」と呼び、北朝鮮にごく幼い時に来た人や北朝鮮生まれの2世を「キコガキ」(帰国者のガキの略)と陰口を叩いたと、金柱聖(1963年生、1976年帰国)は語る。 1970年代の帰国者にとってショックだったのは、多くの1960年代帰国者が、かつて日本に住んでいたとは思えないほど「ゲンチャン化」していたことだった。 同じ日本から来たのに、両者の間には溝が生じたという。  (355頁)

祖国に到着すると‥‥柱聖がすぐに覚えたのが「ゲンチャン」という言葉だった、 これまで何度も触れたように、「ゲンチャン」とは、帰国者が北朝鮮現地の住民を蔑む隠語である。 だが柱聖には、一部の帰国者も「ゲンチャン」と同じに映った。 (361頁)

 1967年に帰国事業が一旦中断したのち、1971年に再開されます。 再開されてから帰国した者は「サイキンカエリ」「サイキンキコクシャ」、それ以前の帰国者は「ムカシカエリ」「古狸」と呼ぶんですね。 「キコガキ」という言葉も初めて知りました。 帰国年が10数年ほどの違いだけの両者だったのですが、暮らし向きや意識が相当に違っていたようです。 「サイキカエリ」は、「ムカシカエリ」が「ゲンチャン化」していることにショックを受けます。 そして両者間に深い溝が走るようになります。   (続く)

 

【北朝鮮に関する拙稿】

脱北して戻ってきた在日       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/02/25/9662215

在日朝鮮人が話す北朝鮮       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/12/19/9643754

北朝鮮に引け目を感じる韓国     https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/07/06/9863855

北朝鮮の主体(チュチェ)思想とキリスト教(1)https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/06/23/9861457

北朝鮮の主体(チュチェ)思想とキリスト教(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/06/30/9862819

朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の建国日は本当か? https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/10/10/9723031

朝鮮民主主義人民共和国の正統性は何か? https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/11/21/9636056

北朝鮮には税金がない、その代わり‥‥http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/02/18/9660183

北朝鮮の「갓끈 전술(帽子の紐 戦術)」 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/01/08/9022748

北朝鮮が崩壊しないわけ         http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/08/04/1701479

北朝鮮の百トン貨車           http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/08/11/1716894

『写真と絵で見る北朝鮮現代史』     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/02/06/5665262

韓国と北朝鮮の歴史観が一致する!!   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/02/10/5675477

白い米と肉のスープ           http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/02/14/5680393

韓国の北朝鮮研究            http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/02/22/5698027

第8題 現代に残る古代国家     http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihachidai

第45題 天皇制と首領制の比較  http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daiyonjuugodai

第57題 北朝鮮と小中華思想   http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daigojuunanadai

第105題 朝鮮総連の人から聞いた話 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyakugodai

『証言・北朝鮮帰国者』を読む(1) ― 2026/08/13

 『証言・北朝鮮帰国者 祖国に渡った「在日」はどう生きたか』(集英社新書 2026年5月)を購読。 1959年末~1980年代初めにかけて北朝鮮に帰国し在日朝鮮人は9万3340人、そのうち北朝鮮を脱出した人は約600人、うち韓国にいる人は約400人、日本にいる人は約200人だということです。(460頁)

 600人のうち50人ほどにインタビューして、彼らから北朝鮮に帰国した時の事情や北朝鮮での生活・社会状況を聞き出して記録したのが今回紹介する『証言・北朝鮮帰国者』です。 かなり苦労してインタビューしてまとめたと思われる本で、読み応えがあります。 皆さまにも購読をお勧めします。

 脱北した帰国者の手記はこれまで何冊も出版されています。 私もいくつか読んでおり、内容的に今度の本(『証言・北朝鮮帰国者』)と重なる部分がたくさんあります。 初めて知る人には衝撃的でしょうが、すでにある程度知っている私には〝やっぱりそうか、そうだろうなあ”と思うことが多々ありました。 そんなところは皆様にはこの本を読んでいただくとして、今は私の知らなかったというか、新たな知識を得た部分を抜き出して紹介したいと思います。

ここで「ゲンゴロウ」について説明しておきたい。 北朝鮮に降り立った帰国者たちは、いつの頃からか現地住民を「原住民」「ゲンゴロウ」「アパッチ」などと陰で呼ぶようになった。 現地住民を未開で野卑だと見下していたことが想像できる。 「アパッチ」は、米国の西部劇映画でネイティブアメリカン(アパッチ族)が野蛮な未開民族として描かれたことの影響だと思われる。 

1960年に帰国し咸鏡北道に住んだ李淑子は「帰国者の子供同士で『ゲンチャン』『ゲンゴロウ』と言っていた」と振り返る。 大人の影響があったに違いないが、早き時期から帰国者の間でこの侮辱的言葉が使われていたわけだ。 

逆に現地住民からは「在日同胞」「帰国同胞」を略した「チェポ」「キィポ」、もしくは「チョッパリ」「半チョッパリ」という日本人に対する蔑称が投げかけられることがあったという。‥‥ いずれも、資本主義と日本の匂いを漂わせている帰国者に対する反感によるものだ。 祖国に帰った在日朝鮮人と現地住民の間に早くから溝が生まれていたことが窺える。 (以上、197~198頁)

「職場でゲンチャンに『チョッパリ』とやられるわけです」と金奎錫が言うように、帰国者が醸す「日本の臭い」に、大なり小なり嫌悪が向けられたことを記憶している人は多い。  (205頁)

 帰国者が北朝鮮現地の人を原住民という意味で「ゲンチャン」と言っていたのは知っていましたが、「ゲンゴロウ」「アパッチ」というのは初めて知りました。 どれも言葉自体に軽蔑的な意味が含まれていることに変わりありません。 また逆に現地の人が帰国者を「チェポ」「キィポ」と呼ぶのは「在胞」「帰胞」のハングル読みですが、それが蔑称だったのですねえ。 おそらく元は蔑称でなかったのが、軽蔑的に用いられるうちに蔑称になったものと思われます。 本国の人の在日に対する蔑称は、昔も今も一貫して「チョッパリ」「半(パン)ヂョッパリ」でした。

 なお参考までに北朝鮮ではなく1980年代の韓国の話ですが、「(芥川賞受賞作家の)李良枝は‥‥『刻』という小説に、在日韓国人の韓国留学生たちが、韓国人のことを『原ちゃん』、すなわち原住民と呼んでいることを書いて、韓国人の読者の憤激と顰蹙を買った」(川村湊『ソウル都市物語』平凡社新書 2000年4月 249頁)そうです。 在日が本国人を見る目というのは北であれ南であれ、変わらないものなのかも知りません。

 

帰国事業で日本から北朝鮮に渡った9万3340人の中には、約6800人の日本国籍者がいた。 日本人妻・夫とその子供たちなどだ。 このうち、日本人妻は約1830人というのが統計上の数字だ。

だが、国籍を問わなければ実際にはもっと多かったことは間違いない。 1959年4月、朝鮮総連は日本人妻が帰国する際に「国籍を離脱して、朝鮮国籍に編入しなくてはならない」の基本方針を打ち出した。 この方針と直接関連するのかは不明だが、本章に登場する小林秋子は北朝鮮に渡る前に日本国籍を除籍して「朝鮮籍」に変えている。 統計上は「朝鮮人」としてカウントされたはずだ。 ‥‥

1960年時点で、在日朝鮮人が日本人女性と結婚する割合は25%近くになっており、総連幹部や在日朝鮮人の著名人にも日本人女性と結婚した人が少なくなかった。 1830人という国籍統計上の人数をはるかに上回る日本人妻が北朝鮮に渡ったのは間違いないだろう。

人により事情はさまざまであったはずだが、日本人妻は、朝鮮人男性を伴侶として選んだ人たちである。 朝鮮人に対する民族的偏見や蔑み、貧困のため、親や家族に結婚を反対された場合が多く、中には絶縁された人もいた。 北朝鮮は朝鮮人の夫にとっては祖国であったが、日本人妻にとっては、言葉も風習も違う異国であり、また食べ物をはじめ極度に物資が乏しかったため、朝鮮人の夫以上の窮愁を味わうことになった。 (以上、238~239頁)

 帰国者のうち日本国籍者が約6800人ですが、それ以外に日本人として生まれながら日本国籍を離脱して「朝鮮籍」になった人がいました。 こういった人は血統的には日本人ですが、帰国事業では「日本人」としてカウントされませんでした。 朝鮮人と結婚した日本人女性が日本国籍を離脱し朝鮮籍になるのは法的に可能で、実際にそんな例は意外と多いようです。

 

総連は、帰国協定が日朝赤十字間で締結される前の1959年4月に、日本人妻を「朝鮮国籍」に編入してから渡航するよう方針を打ち出している。 それがあまり徹底されなかったことは、日本人妻の数が国籍統計上で約1830人にのぼったことから明らかだ。 さらに1961年7月、総連は日本人妻の「帰国」を抑制する方針に切り替えたとされる。 日本人妻が集団で「日本へ返してほしい」と請願する事件があったといわれ、金日成政権が、社会に馴染めない日本人妻を厄介者とみなした可能性がある。 (240頁)

 帰国事業の当初は妻も朝鮮国籍に限るとして、日本人妻は日本国籍を離脱して朝鮮国籍に編入させる方針でした。 しかし下記のように、金日成が有名人の永田絃次郎(金永吉)を呼んだといいますから、そんな規定は雨散霧消したと考えられます。 「あまり徹底されなかった」とあるのは、この永田の件があったからと推察するのですが、どうでしょうか。 

 また永田の妻は日本人で、自分を元の日本へ返すように動いたようです。 「日本人妻が集団で『日本へ返してほしい』と請願する事件があった」とありますが、その一人が永田の妻だったといわれています。 夫の永田も金日成に直接働きかけたようです。 この請願事件が問題となって、日本人妻の帰国を抑制するようになったと考えられます。   (続く)

 

【余談―永田絃次郎(金永吉)】

 永田絃次郎の経歴について、ウィキペディアや「美声のテノールに揺れるアイデンティティ―金永吉の名前と国籍の変転」(『金英達著作集Ⅰ』2002年12月 所収)などの既存の資料から簡単にスケッチしてみました。 なお彼の話は今回の『証言・北朝鮮帰国者』には出てきません。 

 戦前からテノール歌手として名声を博していた「永田絃次郎」(芸名 1909年生)はもともと朝鮮人の「金永吉」であったが、1939年に日本人の家に養子として入籍して内地人となり、名前も「北川永吉」(戸籍名)となった。 日本人女性と結婚して四人の子供が生まれたので、家族は永田も含めてすべて日本国籍であった。 しかし金日成が有名となっていた永田を呼んだこともあって、永田の六人家族全員は第六次帰国船(1960年1月)という早い時期に北朝鮮に帰国した。 北朝鮮では永田は当初は華々しく活躍し、功勲俳優の称号を受け、金日成に面会するほどであった。 しかし家族は北朝鮮での生活に馴染めずにかなり苦労したようで、彼はせめて妻子だけでも日本へ返してやってくれと金日成に頼み込んだが、拒否された。 1960年代半ばに消息を絶ち、粛清されたのだろうと噂された。 1985年に死亡したとされる。 ただし1990年まで政治犯収容所に収監されていたという話もある。

 また脱北者の手記(青山健煕『北朝鮮という悪魔』光文社 2002年9月)には、次のように北朝鮮での永田絃次郎の話が出てきます。

「伯爵夫人」とは旧家の日本女性で、夫の名は金ヨンギリと呼ばれていた。 平壌の「帰国者」たちは金ヨンギリ夫妻の家を「団長・伯爵」と呼んでいた。 それは金ヨンギリこと日本名ナガタゲンジロウ氏が朝鮮総連傘下に在日朝鮮人芸術団を結成し、その初代「団長」を努めたばかりか「帰国」事業が始まるやすぐ帰国船「団長」として「帰国」したということから、夫の金ヨンギリには「団長」という渾名があった。 夫人の出身が伯爵家であったか確実ではないが、旧家の出身ということで平壌の「帰国者」の多くが彼女を「伯爵夫人」と呼んでいた。 (97頁)

当時、文化会館では毎週土曜日の午後5時から名俳優たちの公演があった。 平壌の人たちはこの公演を《名俳優舞台》と呼び、常連も少なくなかった。 ‥‥ 意外なことに粛清されたと聞いた金ヨンギリが舞台に上がったのである。 私は自分の目を疑ったが、紛れもなく大阪で《箱根八里》をナガタゲンジロウの名で、帰国後はイタリア民謡を歌った金ヨンギリであった。 (118~119頁)

「金ヨンギリはまた出て来たね、噂に聞くとスパイ容疑があったとか」 ‥‥ 「本人じゃない、女房が日本人で日本に帰ると大騒ぎしたんだ」 「へえー。で、どうなったんだ?」 「どうもこうもねえ、帰らしちゃうと国の恥だ、静かな所に放り込むしかねえだろ。 夫にも責任があるからさ。 だから一時ヨンギリが出て来なかったのさ。 普通だったら夫婦ともこうさ」 彼は首を切る仕草をして見せた。 「普通じゃないとは?」 「何も知らねぇんだな、ヨンギリには朝鮮総連のバックがあるし、本人もそこで幹部をした所謂革命家みたいなもんだから普通じゃねぇんだ。 分かったか?」 私は彼らの話を聞き、ぞっとしてしまった。 (119~120頁)

 細かい事実関係には疑問がありますが、内容はリアリティがありますね。

 ところで話は変わりますが、近年の韓国では永田絃次郎(金永吉)は「親日反民族行為者」(=民族の裏切り者)として指名されています。 しかし金日成はそんな永田を呼び寄せて面会までしたのですから、韓国で主張されている「北では親日派を徹底的に排除した」は虚偽ですね。

HP開設27周年、ブログ開設20周年 ― 2026/08/06

 「歴史と国家」というタイトルでHPを開設したのが1999年8月でしたから、もう27年が経ちました。 そしてHPを休止してブログを開設したのが2006年6月でしたから、こちらはちょうど20年です。

【HP「『歴史と国家』雑考」】 【ブログtsujimoto】   http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/

ブログ(現在進行中)                 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/

 HP論考集一覧(1999年~2013年)          http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/ronkoushuu

 ブログ論考一覧(2006年~2016年)         http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/burogu

 自分がこれまでやってきたことの整理というか、まとめをして残しておきたいという動機から始めました。 主に在日や韓国・朝鮮問題ですね。 他に歴史や部落問題などいろいろあります。 全くの私一人が営んできたブログです。 協力してくれる仲間がいるわけでもなく、また世間にアピールして同志を得ようとするものでもなく、あるいはまた収益を得るものでもありません。 アクセス数などにも気を使わずに、ただ書きたいことを書いてきただけです。

 書いた文章だけで評価してもらおうと思って、肩書・経歴・学歴・出身地・年齢なんかは不明のままにしてきました。 注目を集めようとするならそんなプロフィールを顔写真付きで出した方がいいようですが、そうするつもりが最初からなかったのでした。 〝書いた文章だけで評価して下さい”という思いで、だからこそ出来るだけ根拠を提示して信頼性を高めるというスタンスで押し通してきました。

 当初は自分が関わったことのある運動の矛盾、あるいは世間で話題になっていることを調べてみたら間違いを見つけたとか、社会的出来事に何かを感じたとか‥‥、そういう類のことをつらつらと書き綴りました。 そして書いているうちにすっかり忘れていたことを思い出し、そうなると関連して次々と思い出されてくるもので、それをネタにさらに書いてきました。 特に関心があったのは、在日や韓国・朝鮮の歴史において根拠の怪しい俗説が広まっていて、そんな俗説に基づく市民運動が盛んだったことでした。 私自身が昔にそんなウソ話を信じていた時期がありましたから、余計に力が入りますね。 市民運動は否定されるものではありませんが、事実をちゃんと検証してほしいものです。

 そんな次第でHPは8年間ほどやってきて休止し、代わりに20年くらい前から始めたブログでは週に一回くらい、月に5回前後のペースでやってきたわけです。 ただしHPやブログに書くというのは第三者に読まれることになりますので、それなりに緊張感を持ち、少なくとも根拠になるものをできるだけ提示して、間違いがないように心がけてきました。 皆さまに興味を感じていただいたとすれば、幸いです。

 拙ブログが他で引用・紹介されることは間々あるようです。 YAHOOやGoogle検索すれば、いくつか出てきます。 また本や雑誌・新聞では、「砧」に関して小泉和子編『ポッタリひとつで海を越えて』(合同出版 2024年9月)に紹介され、20年以上前ですが『朝日』のコラムに触れられたことがあります。 また「閔妃の写真」について『歴史通』2012年1月号で言及され、「旧石器捏造事件」について『邪馬台国116号』2013年1月に転載されたことがあります。 公刊されたものでは、27年間でこの程度ですね。 やはりどこの馬の骨か分からない正体不明の者が書いている論稿なんて、引用・紹介は躊躇されるものです。 けれども世間のどこかで拙HP・ブログが役に立ってくれていれば、私はそれで十分です。

 拙ブログがある程度の読者層を獲得しているのに便乗して、自分の主張を書き込むコメント投稿者がいることにはウンザリしました。 世に知ってほしい主張があるのなら自分でブログやX(旧ツイッター)なんかを開設すればいいのにねえ。 また自分はウソ情報を書いておきながら〝韓国はウソだらけ”なんて平気で書き込む投稿者もいました。 投稿する際には、自分の発言に矛盾がないか常にチェックしなければならないと思うのですがねえ。 またこのごろはほとんどなくなりましたが、いわゆるネトウヨとか言われる方の感情的な嫌韓投稿にも困ったものでした。 こういった投稿者はお断りするようにしています。 収益が全くないブログで〝お客様”というのが存在しませんから、「お断り」が出来るのです。

 ブログは私一人の運営でやってきました。 10年ほど前までは在特会とかいうトンデモない嫌韓団体に紹介されたらしくアクセス数がかなり伸びたこともありましたが、私にとっては迷惑な存在でしかなく、お断りしました。 また私自身が昔に左翼だったので、どうしてもそれへの反省というか批判が多くなり、だからでしょうが、ブログには右寄りの方からのアクセスが多いようです。 だからといって右に阿諛することはしませんでした。

 私はできるだけ根拠に基づいて書きたいことを書いてきたつもりです。 それは上述してきたように、ひたすら自分のためです。 それが27年ものあいだモチベーションを維持してきた秘訣かなあと考えています。 しかしこの先の人生が短くなってきているので、やり残しがないように全部吐き出して書いていきたいと思っているのですが、一方では段々と書くのがしんどくなってきていることも自覚しています。 当分はまだ続けるつもりですが、どうなることやら。 終わりは事前に挨拶せず突然に消えることになるでしょう。 つまり「黙って静かに去る」ということです。 目に見える〝ファン”がいないので、その点は気楽ですね。

【拙稿参照】

HP開設25周年 感謝       https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/08/13/9708658

HP開設20周年、ブログ開設13周年 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/08/02/9136362

HP開設17周年・ブログ開設10周年 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/08/10/8149051

HP開設16周年          http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/09/06/7779581

HP開設15周年          http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/08/08/7408861

金時鐘氏は在日の公務員就職に反対していた ― 2026/07/30

 三重県が外国人の公務員採用取り止めを検討すると表明して以来、これに関する議論が活発なようです。 https://news.yahoo.co.jp/articles/997b8a9481c75e8f8c194ad087c5d78d88d2e42b 

 外国人の公務員就職について、2026年6月10日付けの『朝日新聞』に国士舘大学文学部の鈴木江理子教授さんのインタビュー記事が「外国籍公務員の採用 門戸開く自治体増えても、若者たち阻む『制限』」と題して掲載されました。 その中で、彼女は次のように述べておられます。

主に旧植民地出身者の権利獲得を目指す動きのなかで、73年、阪神地域の市町が地方公務員(一般事務職)の国籍要件を撤廃したことを皮切りに、同様の対応を行う自治体が徐々に増えていきました。 

 https://www.asahi.com/articles/ASV690DYFV69OIPE018M.html

 鈴木さんはおそらく知っていて語らなかったと思われますが、阪神地区での在日韓国・朝鮮人の公務員就職には意外なところからの反対があったのでした。 このことについて、公務員の労働組合である自治労兵庫県本部が次のように報告しています。

「兵庫県下の国籍条項撤廃について」 市町レベルの国籍条項撤廃は、1974年に、全国で初めて尼崎市、川西市など阪神地域の6市1町が撤廃しました。 ‥‥ そして、実際に6名が採用されましたが、その2年後に在日朝鮮人の民族団体からの「地方公務員への採用は同化政策に荷担している」との批判を受け、運動が一時後退をする時期もありました。 

https://www.jichiro.gr.jp/jichiken_kako/report/rep_yamagata28/jichiken_hokoku/buraku05/buraku5.htm

 自治労は、反対したのは「在日朝鮮人の民族団体」としましたが、それは間違いです。 実は反対して「運動を一時後退」させたのは、在日生徒を公務員に送り込んだ当の高校教師たちだったのです。 ウッソ―!と思われるかも知れません。

 当時の高校では教師たちは、就職を希望する生徒たちのために情報を交換し時には企業等に働きかける「進路指導研究会」という会を作って、活動していました。 そしてそこが1973年に阪神間の公務員採用要綱にあった国籍条項を撤廃させて、翌年に実際に在日の教え子たちを就職させたのでした。 ところがその翌年度になってその研究会が在日の公務員就職を一転して反対し、「凍結」すると言い出しました。 玄善允さんという方が著書で、その時の「進路指導研究会」の機関誌からその主張を引用・紹介しています。 ここではそれを再引用します。

兵庫県進路指導研究会ニュース1976年3月『新しい出立のために』第18号に、「朝鮮人生徒の進路保障 在日朝鮮人生徒の公務員への就職―当面凍結する意味を進指研で討議―」が発表された。 そこには次のように記されている。

「在日朝鮮人生徒の公務員への就職については、私たちは今後これを凍結する。 在日朝鮮人生徒を公務員として送り込んだ阪神間の高校では、いま、彼らをすみやかに引き取り、積極的に転職をすすめていく方向で、当該生徒たちとの話し合いが続けられている。 在日外国人の門戸を開放し、地方公務員として受け入れてきた側の自治体の、民族問題に対する理解がまったくないことがその後明らかになってきており、このままでは在日朝鮮人法的地位に抵触する危険も生じる恐れがある。 また、このことで、私たち日本人が同化に手をかすことがあるとすれば、なおのこと見過ごすわけにはいかない」

「自治体当局ばかりではなく、労働組合もまた(在日に関する知識や認識に)乏しい‥‥公務員のストが禁じられているいま、(外国人公務員が)労働運動をすれば、生命に危険があることすら分かっておらず、在日朝鮮人を日本人の責任で守り切れる保障がない限り、彼らを労働組合に加入させるべきではない」

「(在日朝鮮人生徒の公務員就職は)凍結するが、<国籍条項>撤廃の要請は続ける。 そのわけは私企業が在日朝鮮人、中国人生徒を採用しない口実として、<公務員>も外国籍生徒を採用しないといったようにして就職差別を正当化しようとする風潮が現に存在するからである」  (以上、玄善允『金時鐘は「在日」をどう語ったか』同時代社2021年4月 157~158頁より再引)

 「在日朝鮮人生徒を公務員として送り込んだ阪神間の高校では、いま、彼らをすみやかに引き取り、積極的に転職をすすめていく」とは、公務員に就職したばっかりの在日の教え子たちを辞めさせるということに他なりません。

 この「進路指導研究会」の機関誌には、金時鐘さんが在日の公務員就職に反対する意見を投稿しています。 金宣吉さんという方の論文から再引用します。

「在日朝鮮人が日本の公務員になることは、日帝時代の夢を彷彿させる。 1945年8月15日まで、朝鮮人の青少年たちの夢は、町村の吏員になることがすべてだった。 いま、日本人化する風潮がつよく、帰化運動を推し進める動きが阪神間で起こっていることを合わせて考えるなら、官吏になることは同化の道行きだ。 言うまでもなく、在日朝鮮人の鉄則は、日本の内政に干渉しないことである。」

「公務員というなら、朝鮮語を教えることで公務員になっている私の場合のような、知識労働者としての面が開発されるべきだ。 公務員への就職を食えるからとか、金になるからというだけの、市民的権利の拡大だけに短絡させてはいけない。 そのような職場開拓は 問題がある。」 (以上、兵庫県高校進路指導研究会「在日朝鮮人諸団体の評価」にある金時鐘さんの投稿。 金宣吉「歴史をふまえた『異者』との共生」52~53頁より再引) 

https://miccskyoto.jp/miccskyoto_cms/wp-content/uploads/2023/07/intersection_01_04_interview.pdf

 また金時鐘さんは同じ頃に、在日の公務員就職に反対する理由を「民族教育の一私見」という論文でも明らかにしていました。 これは近年に出版された『金時鐘コレクション』にも再録されていますので、考えは変わっていないと思われます。 誤解されないために、ちょっと長くなりますが引用・紹介します。

兵庫県で推し進められている解放教育運動の中でも、在日朝鮮人子弟の進路保障の問題は大きな比重を占めている問題です。 それだけに、日本の教師達はほんとうに骨身を惜しまずこの進路保障、いい就職先を探して歩き回りますし、行政側とも関わって、在日朝鮮人でありながら地方行政の吏員、地方公務員になっているケースもままあるのです。 それが一昨年、公務員推挙、公務員になることを凍結するということが、兵庫解放研の集会で確認されまして、それが方々へ伝わっていくうちに、いろんな形の変わった受けとめ方ともなってしまっているようです。

在日朝鮮人が無権利状態を強いられていて、一切の就職口から閉め出されていることは、川崎におられる皆さん、特に日立の就職問題と深く関わった友人達が多いと聞いております川崎の皆さんには、在日朝鮮人の労働権の問題などよく知っておられることだと思います。 このような無権利状態の在日朝鮮人に、いい会社の門戸が押し開かれ、とりわけ、公務員、地方公務員としての役所勤めが出来るというというのは、破格な、破格と言っては語弊がありますが、絶対開けようのない戸口がこじ開けられた、もしくは、穴があいたということで、大きい意味を持つことはもちろんです。 社会的には大変なことだと思います。

それにも関わらずそのことを凍結するといったことの裏には、初めて兵庫県で地方公務員に採用されたのは県立尼崎工業高校の卒業生達でありましたが、その生徒たちの一部に、勤めに行っても続かなかった生徒がいたという実情があったからです。 または姫路の西播地区でも女生徒が一人、やはり地方行政に入っていますが、聞くところによると、その生徒は、入ったとたん日本人らしく振る舞っていると言います。 親までが加担してそうだといいます。 朝鮮人の痕跡をなくする側に立っていく、そういうことがあって、行政側に推挙することを凍結するというふうに兵庫の解放研では言ったのです。

日本の強大なシステムの中へ、大きい歯車の中に弧絶してひとりが入るというとき、それはよほどの意志力が働かない限り、よしんば少々強固であってもその大きな歯車にはどうしても噛みこまれていく。 周辺との調和を保つためにも、どうしても周辺の体質に合わせる自己になっていく。 そうならざるをえない要素の強い所に入るわけですから、どうしてもそうなるケースが多い。 だから地方行政などに入れるんだったら、入れるまでの学業保障と、そういう朝鮮人の自我確立みたいなものをもっと徹底して進めてからということが、凍結をするといったことの本質だったのです。

同じ地方公務員になるにしても、現業関係つまり土木関連の業務を担ったり、公園管理や環境衛生等の動く仕事をするような業務につくことは、私個人としても、そう不賛成ではありません。 ところが窓口業務にでも坐るとなると、どうしても私には寒ざむとします。

私の少年のころ、かつての日本に統治されていた植民地下の少年達の夢というのは、面事務所の書記、日本の行政からしますと町村役場の吏員になるということが夢の最大のものでありました。 下っ端というか、木っ端役人ですが、ともあれ行政権力から給料をもらえるということが一番の夢だったのです。 少年の夢として、青少年の描く夢として何と、わびしい限りではありませんか。

そのようなことが、在日朝鮮人の労働権の開発という正当な運動の闘い取る遺産の中で、在日世代のさもしい夢として育てられるのでしたら、これは何ともやりきれない話です。

一つの想定として、運動が進めた成果の一つに、ある生徒が地方行政の窓口に坐ったとします。 その窓口が外国人登録で係であったとしたら、同じ民族同士で取り仕切る側と取り仕切られる関係が現出する。 こういうことを作り上げてはならない。 兵庫解放研ではそのことを言っているのです。

私達が進路保障を言うとき、無権利状態に放置されている在日朝鮮人の子弟達に労働市場が解放されるということは、幾重にも大事なことであることは言をまちません。 ですが運動を進める人たちに、敢えてこういうことを朝鮮人として言いたいのです。

いい職場、大きい企業の門戸を開けるということは確かにすごい成果には違いないが、いい職場必ずしも朝鮮人の主体的な生き方とはなりえない。 観念的な言い方とはなりますが、いかにいい勤め口であってもノンといえるだけの選択をしうる子弟達があって、いい職場が開発されるべきだ。  大きいところへ勤められればいいとばかりに飛びつく子弟達ばかりでは“いい職場”は上昇志向ばかりをあおる毒花、仇花となるものである。

このような市民サイドの運動がない時でも朝鮮人は生きてきました。 朝鮮人の親は野放図にアッケラカンと生きてきたのです。 いい勤め口だけが進路保障のいい目標であるとき、これは厳しくも親の生きている生活実態を忌避する生理感覚を助長しないとも限らない。 いい職場が在日朝鮮人の夢ならば、いい職場などでなく、一家あげて手仕事をし、人のいやがる職種だけが仕事であった。 例えばドブロクを売り、残飯をかき集めて臭い豚を飼い、クズ鉄を集めて売ってきた親達は何と汚い存在であろうか。 そういう親達から切れたい若い子弟達が、いい会社いい職場に憧れてはいないか。 兵庫の解放教育で論議されなかったことが、今漸く論議されてくるとすれば、進路保障の問題におけるこの問題であります。

在日朝鮮人の展望の中では、親の生き来し、親の生きざまが誇りとして受け継がれる世代が創り出されることこそ、在日朝鮮人の教育であるべきものです。‥‥ よしんば(就職の)門戸が閉ざされたままであっても、朝鮮人の若い世代達は生きねばならない。 泥まみれになりながら、屈託なく笑っている親達にまともに目が向き、この親に誇りを持てる子どもにしてこそ本当の教育だと思うのです。   (「民族教育への一私見」関東民闘連主催・民族教育セミナー、川崎市、1977年3月6日 『金時鐘コレクション10』藤原書店 2020年6月に所収 202~206頁)

 これに対する意見には賛否両論があるでしょう。 私は一部賛成、一部疑問ですね。 しかし在日の有力言論人であり影響力を有しておられる金時鐘さんが、かつて在日の公務員就職に反対していたという事実だけは皆さまに知っておいてほしいと思います。 金さんは1973年に兵庫県の県立湊川高校に教師として赴任しました。 進路指導研究会が在日の公務員就職を凍結する方針を打ち出した時期と重なるところから、金さんがこの凍結方針を主導したのではないかと思われます。 つまり凍結方針は、金さんの考えが反映したものではないか、ということです。

 今三重県では外国人の公務員採用について議論があり、マスコミでも取り上げられていますが、かの有名な金時鐘さんが反対していた事実に誰も触れないのは果たしていかがなものかと考えます。

【関連拙稿】

岩波『世界』の論稿に抜け落ちた資料    https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2026/02/08/9835414

金時鐘氏への疑問(3)―教員免許・公務員就職 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/05/9766006

第100題「国籍条項撤廃運動」考       http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyakudai

 

【追記】

 三重県の外国人職員採用再検討問題について、マスコミではちょっとした話題になっているようです。  https://news.yahoo.co.jp/articles/485e3928cb8c274c58fe8fd32d587f7974c7153e

 拙ブログにあるように、1973年に阪神間の公務員採用要綱にあった国籍条項がなくなり、翌年に6名が採用されました。 毎日新聞は、このうち尼崎市役所と川西市役所に採用され定年まで勤めあげた在日職員を取材して記事にしています。   https://mainichi.jp/articles/20260506/ddl/k24/040/070000c    https://mainichi.jp/articles/20260206/k00/00m/040/295000c

 彼らは学校から推されて公務員になったのですが、その直後にその学校から「彼らをすみやかに引き取り、積極的に転職をすすめていく方向で、当該生徒たちとの話し合いが続けられている」とされたことになってしまいました。    しかし学校が実際に「転職をすすめた」こともなく、「話し合い」をした事実もありません。 つまり学校の「進路指導研究会」が言っていることは、ウソだったのです。

 その経緯について詳しくは分かりませんが、「進路指導研究会」という教師の公的な研究会が在日公務員就職凍結を打ち出し、すでに就職していた在日を辞めさせようとしたという事実は変わりません。 その研究会を動かしたのは金時鐘さんだろうというのは私の推測ですが、おそらく間違いないと思われます。

 なお拙ブログでは、尼崎市役所の黄光男さんについて取り上げたことがあります。 

  黄光男さんの思い出     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/06/11/9256337 

  黄光男さんの思い出(2)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/06/25/9261345