韓国語講師と話して思ったこと2018/10/05

 日本で韓国語講師をやっている人から、韓国人と日本人との違いについて、興味深い話を聞きました。 すべて韓国語で話してくれたので、できるだけ正確に聞き取るようにして、まとめてみました。

韓国人と日本人との違いについてです‥‥。韓国人は保守と進歩にわかれるのですが、お互いに交わりません。 保守は保守同士で集まり、進歩は進歩同士で集まります。 人に会った時、相手が自分と同じ保守・進歩なのかを確かめて、違うとなればすぐに別れて顔すら見ようともしなくなります。 日本人はそうではないでしょう。 違う人に会っても、それで付き合いを止めることはないでしょう。 違う人からでも自分の知らない情報があればそれを知ろうとするし、自分の考えをどのように批判するかを聞いて自分の考えを発展させようとするでしょう。 韓国人にはそういうところがありません。

 来日して10年位だそうですが、その間の体験に基づく日韓の比較論といったところです。 日本人のいい所だけを見てこられたようで、だから10年も日本で生活できたのでしょう。 ただ日本人でも、対立する考えの人とは絶対交わろうとしない頑固な人は存在します。 この点は韓国人と変わらないなあと思いました。 上記の韓国語講師の方はそれが日本人ではあまり目立たず、韓国人では目立つと感じられたのでしょうねえ。

 ところで対立する人と交わろうとしないと言えば、かつて拙ブログでよくコメント投稿してきた人たちがそうでしたねえ。 韓国や在日への嫌悪・拒絶を書き連ねます。 そこまで韓国に関心があるなら、韓国語を勉強して韓国人と実際に交わり、また韓国の様々な言論に接すればいいのにと思うのですがねえ。 語学の勉強は最初からやる気がなく、ネット上で自分の気に入る情報だけを集め、また一般向けの嫌韓雑誌や嫌韓本ばかり一生懸命に読んでいるようです。

 こういった人たちの発言は日本国内で日本人に向って日本語で吠えているだけで、これをまるで正義であるかのように思い込んで快感となっているようです。 これは反日を言いつのる韓国人と大した違いがなく、同一レベルと言っていいでしょう。

 小倉紀蔵さんは「嫌韓とは実は日本の韓国化」と論じたことがありました。 上記の韓国語講師さんの話を聞いて、これは正解だと改めて思った次第です。

嫌韓は「日本の韓国化」である―小倉紀蔵 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/12/23/7522145

私がコメントしない訳      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/03/06/7238847

水野俊平『笑日韓論』 (続)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/09/20/7439097

第三次教育令ー朝鮮語教育は廃止されたのか2018/10/12

 朝鮮植民地時代、学校での朝鮮語教育を廃止したとして評判の悪い政策が1938年の第三次教育令です。 その内容は平凡社『韓国・朝鮮を知る事典』(2014年3月)によれば、次の通りです。

日中戦争開始後38年の第3次教育令では、朝鮮語は随意科目として実質的に廃止されるに至った。(109頁)

そしてわずかに残されていた朝鮮語の時間も、日中戦争後の皇民化政策のもとで1938年の第3次教育令によって<随意科目>と指定され、ついに完全に形骸化してしまう。(355頁)

 このように朝鮮語は学校で必修であったのが、1938年に「随意科目」となってしまい、教えることがなくなったとされています。 随意科目ですが、実質的に朝鮮語科目がなくなり廃止されたという説明です。

 一方、私は在日1世のお年寄りから、自分の父親は学校の先生で朝鮮語を教えていた、裁判でも日本語と朝鮮語の通訳をしていたから、うちの家はハイカラだったという話を聞いたことがあります。 随意科目だから朝鮮語の授業があったんだなあと、その時は思いました。

 以上のように朝鮮語の「随意科目」化については、朝鮮語の授業は廃止されたという解説と朝鮮語の授業があったという体験談とがありました。 実際はどうだったのだろうかと気になっていたのですが、三ツ井崇「近代朝鮮における日本語の社会史・試論」という論文を読んで、ああ、そういう実態だったのかと新たな知識を得ました。 この論文は須川英徳編『韓国・朝鮮史への新たな視座』(勉誠出版 2017年5月)に所収されているものです。

 この論文中に、植民地時代に教員としての経験を持つ吉野鎮雄(車炳燉)の証言があり、それを紹介します。

(朝鮮語授業は)南総督の時代は‥‥随意科目となりました。 そのときになると、朝鮮人の校長先生は、随意科目だからこれはやらなくていいといって、廃止した学校が多いんです。 日本人の校長先生だというと、そういうことはいけないと。 朝鮮人が朝鮮語を習わないでどうするんだといって非常に叱られて、それまた復活してやるというような傾向だったんです。

私が加平の上面の学校の簡易学校ですが、そこの上面の学校に赴任したときには‥‥この(沈宜鳳)先生がいたんです。 この先生のときに朝鮮語が随意科目になったんですが、その沈先生はやめるといったんです。 その次に日本人の校長先生が来てから「いや、これは復活させなければだめだ」っていって、朝鮮語を教えたんです。 その学校はもちろん四年制の学校だったわけです。‥‥沈先生のときには朝鮮語をやめさせちゃった。    それから加平郡に私が初めて行ったときは、朝鮮人の視学(地方教育行政官)がいるんです。 郡視学が。この視学先生が朝鮮語を非常に大事がる先生で、できるだけやってくださいと、こう穏やかにいうんです。

その次に、私が仁倉の普通学校にいたときに校長先生が‥‥あとから郡の視学になって来たんです。 玖島という、広島の方で‥‥その先生は朝鮮語をやらなくてどうするんだと。 いまになって君たち‥‥日本語のわかっていない年寄りが多いんだと。 学校に行った者が(年寄りに)手紙も書けないというようなことじゃ何もならないから、やらなきゃならんと。 この玖島先生はそういう主義で、みんな朝鮮語をやらせたんです。

それから前の李という視学、これはのちに仁川の松林の普通学校(仁川第二松林尋常小学校)の校長になって行ったんですが、その先生もそういったんです。 四年制の学校を卒業しても手紙一本書けないということではこれは恥だと。 学校教育の成果が上がっていないという、いちばんの証拠になるんだと。 朝鮮語はやったほうがいいという、おだやかに訓示しておった。 (以上 192~193頁)

 この証言から、朝鮮語科目を廃止しても復活する場合があったということが分かります。これは随意科目になったのですから、廃止があれば復活もあるという当然の結果です。 また朝鮮人校長が朝鮮語科目を廃止したことが多かったようですが、朝鮮語教育を推進しようとする朝鮮人教育者もいたことも分かります。

 そして朝鮮語教育の目的を、日本語のできないお年寄りとの手紙をやりとり出来るようにするということに置いていることに注目されます。 考えてみれば身近な人と文字でコミュニケーション出来るようにするというのは、初等教育の目標として自然なことです。

 1938年の第3次教育令によって朝鮮語は必修から随意科目になったのですが、以上によってこれを「実質廃止」とか「完全形骸化」と評価する『韓国・朝鮮を知る事典』の解説は実態とかけ離れていることは明らかでしょう。 また日本人校長が朝鮮語科目を維持したことを見識の高さのようにいう見解があるようですが、これも実態とずれているようです。

 「随意科目」は言葉通りに各学校の判断に任されたもので、ある学校では朝鮮語授業を維持し、またある学校では廃止したということです。 そして日本人校長は維持、朝鮮人校長は廃止という傾向性はあったようだが、一概にそうとは言えなかったが正解ですね。

 そして朝鮮語教育を維持・推進しようとした教育者は日本人も朝鮮人も、日本語を知らないお年寄りに手紙を書くことが出来る子供に育てるという初等教育の目標を考えていたということです。

 植民地時代は朝鮮語が禁止されたという俗説が広まっていますが、正確な歴史事実を知ってほしいですね。

【拙稿参照】

日本統治下朝鮮における教育論の矛盾 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/02/01/1156247

植民地下の朝鮮で実施された選挙   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/01/03/7530641

『現代韓国を学ぶ』(6)       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/06/11/6476173

朝鮮語を勉強していた大正天皇   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/09/24/6111974

「朝鮮語は禁止された」というビックリ投稿 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/01/15/8324407

『図録 植民地朝鮮に生きる』   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/11/02/6621470

朝鮮語は容認されていた―愛国班  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/11/10/8724405

朝鮮語は容認されていた―愛国班 (2)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/11/14/8727138

日本統治下朝鮮における朝鮮語放送  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/11/06/8721782

学校で朝鮮語を禁止した理由    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/01/20/8327730

尹東柱のハングル詩作は容認されていた http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/07/11/8618283

姜信子『棄郷ノート』を読む2018/10/19

 長年積ン読していた姜信子さんの『棄郷ノート』(作品社 2000年3月)を読む。 そのエピローグに、彼女自身が20歳ころ(1980年前後)に感じた在日韓国人の生きざまについて次のように簡潔に書いておられます。

日本で在日韓国人が経験してきた生きがたさは、いまさらここで書く必要もないことだろう。 その生きがたさを乗り越えようとするなら、けっして日本人に同化する道を選ばず、韓国人としての誇りと民族意識をよりどころに闘うこと。 日本式の通名ではなく、真の名前である韓国名を名のって、みずからのアイデンティティのありかを鮮明にすること。 それが正しい在日韓国人のあり方だという暗黙のルールが、在日韓国人社会にはあった。 

それに従う従わないにかかわりなく、日本人に対峙するかたちでつくりあげられた「民族」という枠を、在日韓国人と呼ばれる立場にある私は強く意識しないわけにはいかなかった(これは私が大学に入ったころ、いまから20年ほど前に私が切実に感じたこと‥‥)。 (254頁)

 1980年頃の在日韓国人社会は、確かに「日本人に対峙するかたちでつくりあげる」を目指そうと主張する声が大きかったものでした。 「日本人に対峙する」手段の一つとなったのが、本名を名乗るということでした。 姜さんは当時の在日韓国人社会に「日本式の通名ではなく、真の名前である韓国名を名のって、みずからのアイデンティティのありかを鮮明にすること。それが正しい在日韓国人のあり方だという暗黙のルールがあった」ことは事実でした。

 日本社会は在日の民族性を否定するために通名を使わせている、在日は本名を名乗ることによって日本という差別社会と闘わねばならない、という主張でした。 ただし私の経験では、それは在日社会をリードする活動家(学生を含む知識人たち)らの認識であって、そうでない多くの在日は民族とかアイデンティティとかについて黙っているか、あるいは強く言われると反発していましたねえ。    日本人の活動家や教師たちは在日活動家と主に付き合うので、彼らの主張に同調していきます。 本名を名乗る在日は民族意識のある立派な方なんて考える人が多かったものです。 学校の教師は在日の子供たちに本名を名乗れと強く迫り、我が校では何人の在日生徒に本名を名乗らせたか、その成果を自慢するように発表する先生がいました。

 またある在日は、自分は本名を使っているが家では韓国料理がほとんど出ることがないし韓国語なんて全くの初歩程度、そうであるのに学校の先生が家庭訪問で、本名を名乗っておられて立派ですと言われてビックリしたと話していました。 本名を名乗る在日、しかもそれがハングル読みならば、ただそれだけでその在日を尊敬の対象とした日本人は少なくなかったものです。

 ある焼き肉屋のお嬢さんは小中高を朝鮮学校に通い、朝鮮語はペラペラでした。 民族意識という点では普通の在日よりはるかにレベルの高い人です。 そこに例の活動家がやって来て、なぜ本名を名乗らないのかと迫ったそうです。 そのお嬢さんは、日本に住んでいるから日本名でいいやないの、何で本名を名乗らなきゃいけないの、何でうちにそんなことを言うのか訳が分からないので腹が立ったと言っていました。 これも私が直接聞いた話です。

 姜信子さんの本を読んで、1980年代の在日社会における本名のあり方を思い出した次第です。 在日社会をリードしている活動家・知識人たちと、一般の在日との認識の違いが出始めた時代でしたねえ。

 姜さんはさらに、韓国人でも本国と在日との違いに言及します。

日本で生まれ育った在日韓国人と朝鮮半島の韓国人は同じ民族意識で結ばれている、あるいは当然に結ばれうると考えるとすれば、それはあまりに楽天的な幻想にすぎない。 黙ってただ歩いているだけでも、日本臭さが体中からぷんぷんと出ている私が、明らかに日本語のイントネーションに影響されている韓国語で、自分は韓国籍をもっている、父母も祖父母もみんな韓国籍で、自分の体には韓国人の血が流れていると主張したところで無駄なこと。

韓国民/韓民族としては規格外の存在であり、異邦人にすぎないということを、韓国の隣人たちは容赦なく思い知らせてくれる。‥‥ 韓国人の血を持つくせに日本臭い。 怪しげな韓国語しか話さない。 それは、民族意識に燃える韓国の隣人たちにとって、<裏切り>にも等しいことだった。(以上 255~256頁)

 在日が「民族」に目覚めて本名を名乗り韓国語をいくら勉強したところで、本国の韓国人からは「日本臭い」として突き放され、冷たく見られているというのが実態でした。 日本人ならば「日本臭い」のは当たり前ですから日本人として振る舞った方が理解を得られやすいのですが、在日が自分は民族に目覚めて本名を名乗っていますと下手な韓国語で自慢するように言うと、「日本臭さ」が鼻に付いて反発を買うようです。

 考えてみれば、韓国人ならば韓国名を名乗り韓国語をすらすらと話すのが当たり前です。 逆に韓国語の出来ない韓国人は恥じ入るしかないものです。 しかし当時の在日は、本名を名乗ってハングルをちょっと読めるというだけで民族に覚醒したという意識を持ち、また日本人(といっても一部)から尊敬を受けていたのでした。 その居心地の良さは日本人を相手にする時だけに通用し、本国の韓国人には通用しなかったのです。

 本名を名乗り民族を熱っぽく語っていた在日が、本国の人と会う段になって借りてきた猫のように委縮してほとんど喋らなくなったものでした。 そして彼らが考え出した論理が「在日は日本人でもなく韓国人でもない。だから韓国語が出来なくてもいい」で、本当に韓国語を勉強しなくなりました。 それでも民族差別する日本社会を非難し、過去を反省しない日本人を糾弾する熱意は変わらなかったですねえ。

姜さんを読んで、1980・90年代を思い出した次第です。 

【拙稿参照】

姜信子『私の越境レッスン・韓国編』http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/20/7738016

在日の範囲とルーツを隠すこと      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/08/04/472555

在日の慣習と族譜            http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/08/12/481465

これまでの在日とその将来について(仮説)http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/05/01/348943

韓国人でもなく日本人でもない      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2008/05/24/3539242

民族を明らかにするのに勇気がいる、という発言  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2009/05/10/4297782

在日韓国人政治犯            http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2010/05/17/5092838

外国籍の先生              http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2010/07/03/5197498

在日は日韓の架け橋か          http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2010/07/11/5212322

外国人参政権要求-最終目標は国政参政権 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2010/09/12/5342632

在日が民族の言葉を学ぼうとしなかった言い訳  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2010/12/12/5574193

在日の政治献金             http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/03/06/5725110

在日の政治献金(2)          http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/03/11/5735616

在日コリアンと本国人との対立      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/11/20/6208029

在日コリアンの「課題」         http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/01/08/6282960

在日朝鮮語               http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/05/13/6444331

在日の今後の見通し(犯罪率)について  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/11/25/6642370

マルセ太郎               http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/01/19/6694884

「チョン」は差別語か?         http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/04/04/7603685

アルメニア人の興味深い話―在日に置き換えると http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/09/26/7812267

同化されない外国人           http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/10/01/8206320

毎日のコラム「平和をたずねて」の間違い2018/10/25

 毎日新聞2018年10月23日付けのコラム「平和をたずねて ―広岩 近広」の中に、次のような引用文がありました。     https://mainichi.jp/articles/20181023/ddn/012/040/033000c

(関東大震災で殺害された朝鮮人の数は)デモクラシー指導者で「朝鮮人虐殺事件は震災における最大の悲惨事」とした吉野作造は独自の調査で2613人としたほか、在日朝鮮人らが結成した「在日同胞慰問会」の調査では6000人を超えた」(毎日新聞社『毎日の3世紀 上巻』)

 これを読んで、あれ!? 吉野作造は自ら調査したことがなく、犠牲者数は伝聞の話のはず。 これは明らかな間違いなので、引用する際に錯誤があったのではないかと思って、引用元の本を探しました。

 『毎日の3世紀 新聞が見つめた激流130年 上巻』(2002年2月)の545頁に該当部分がありました。 そして引用は間違っていないことを確認しました。

 ところで吉野作造自身が、殺害された朝鮮人の数について次のように述べています。

朝鮮人の被害の程度を述べる。之は朝鮮罹災同胞慰問班の一員から聞いたものであるが、此の調査は大正12年10月末日までのものであって‥‥ (姜徳相・琴秉洞編『関東大震災と朝鮮人』みすず書房「現代史資料」 360頁に所収)

 また吉野作造『中国・朝鮮論』(平凡社東洋文庫 松尾尊兊編)の300頁には、次のような編注があります。

吉野は‥‥朝鮮罹災同胞慰問班の一員から聞いたという、朝鮮人の虐殺地点と人数(計2,613名)を記した

 以上のように吉野作造自身が伝聞であって「独自の調査」を全くしていないことを明記しているし、研究者もそれを記しています。 しかし毎日新聞は16年前の自社の出版物に吉野は「独自の調査」したと書き、さらに広岩記者がこの間違いを検証しないで最近のコラムにそのまま引用した、ということです。

【拙稿参照】

水野・文『在日朝鮮人』(19)―関東大震災・吉野作造 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/09/04/8169265

水野・文『在日朝鮮人』(13)―関東大震災への疑問 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/07/19/8134282

関東大震災時の「在日朝鮮人虐殺者」の数 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/06/09/398058

関東大震災の朝鮮人虐殺     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/08/26/8163009

関東大震災の日本人虐殺     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/09/15/8189607

関東大震災「朝鮮人虐殺事件」 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/09/01/8663629

毎日のコラム「平和をたずねて」への疑問(1)2018/10/30

 前回、毎日のコラムにある吉野作造が「独自調査」としている点が間違いであることを指摘しました。 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/10/25/8982241 なおこのコラムでは、他にも間違いというか疑問が見られます。 

シベリアからの撤兵を表明すると、ウラジオストックでは日本人の引き上げが始まった。政府は‥‥朝鮮人には冷たかった。 <引き揚げを希望する朝鮮人も約1万5000人にのぼっていた。にもかかわらず、加藤内閣は彼らを支援しないと10月13日に閣議決定した。 (略) 日本人と同じ「臣民」ではあるものの、そこには一線が引かれていた。(麻田雅文『シベリア出兵』中央新書)

 この引用文の中にある「朝鮮人は日本人と同じ『臣民』であるものの」とあるところです。 あれ?!シベリアに多数の朝鮮人が住んでいたのですが、彼らはロシアの支配を受け入れていて、日本の「臣民」ではなかったはずだが、と思いました。

 シベリア特に沿海州には李朝末期(19世紀)から多くの朝鮮人が移住していました。 彼らの生活はイギリス人女性旅行家のイサベラ・バードが報告しています。(翻訳が平凡社と講談社学術文庫にあります) 彼らは朝鮮総督府の編成する朝鮮戸籍に登載されておらず、従って血統的には朝鮮人ですが大日本帝国の構成員である「臣民」ではありませんでした。 これについてもっと詳しい資料を探してみたのですが、ちょっと見当たりませんでした。 さらに調査しなければなりませんね。

 ところで、これは引用文ですので、引用元を探してみました。それは麻田雅文『シベリア出兵』(中央新書 2016年9月)211~212頁に該当部分があり、正確に引用されていることを確認しました。 省略されているところがあるので、前後を含めて改めて紹介しますと、

1922年9月末には、ウラジオストックの日本人たちは、やむを得ない事情で残るほかは、いっせいに引き揚げることを決める。こうして、8月1日には3386名いた日本人は、10月中旬には多くが引き揚げた。‥‥ 引き揚げを希望する朝鮮人も約1万5000人にのぼっていた。にもかかわらず、加藤内閣は彼らを支援しないと10月13日に閣議決定した。「政情の変化に基づく朝鮮人の危険は甚だ微小」という理由で、日本人と違って彼らは安全だと言う(『日外』大正11年第1冊)。日本人と同じ「臣民」ではあるものの、そこには一線が引かれていた。

 ここで中国満州にあった間島(今の延辺朝鮮族自治州)に居住していた朝鮮人の違いが出てきます。 同じく『シベリア出兵』には次のような記述があります。

日本政府が1915年の対華21ヶ条要求と南満東蒙条約で、間島地方朝鮮人も「日本人」であり‥‥と主張していた (177~178頁)

 つまり大日本帝国政府は、間島の朝鮮人は我が国の臣民であると主張していながら、シベリアの朝鮮人については発言をして来なかったのが実情だったのです。 日本はシベリア在住朝鮮人を「臣民」と見なしていなかったのです。 だからシベリアの朝鮮人たちの多くがロシア革命の際にパルチザン(赤軍派)に加担して、日本のシベリア出兵に対抗した理由が分かります。

 この辺に関してはもっと調べねばならないところですが、シベリアの朝鮮人は「臣民」ではなかったという点で、他の朝鮮人とは区別されていたと言うことが出来ると思います。